1992年の同窓会

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 今から30年ほど前、北海道新聞夕刊のコラムに、ある同窓会の様子が取り上げられた。

 1992年(平成4年)4月15日(水曜日)のことだ。

 それは、京都市嵐山で行なわれた鹿島中学校7期(昭和29年卒)の同窓会だった。

 

 同年、大夕張では、夕張シューパロダム対策協議会が発足し、生活相談所が開設された。

 

1992年4月15日 北海道新聞夕刊(7期卒業生 池田憲治さん提供)

【今日の話題】

京都嵐山で再会

 「炭鉱の町に住んだ人たちの特色だろうか。他とは比べものにならないほど仲間意識が強い」ーその昔にかえり、だれはばかることなく歓声をあげ、感激に浸る教え子たち。

 さかずきを片手に感無量の面持ちで見守る恩師が漏らした言葉だ。

 この情景は、(1992年4月)11日夜、観光名所として知られる京都・嵐山で開かれた夕張・鹿島中学校第7回生(昭和29年卒)の同期会のひとコマ。

 5年に一度は開く約束だそうで、今回は昭和62年に札幌・定山渓に集まって以来の ”大集合” 。

 この日の嵐山は、前夜の風雨で、”春らんまん” の花ではなかったものの、遠雷の客を迎えるにふさわしいサクラ吹雪が舞っていた。

 夕張から6人、他の道内から41人が空路出席。

 本州在住者は、新幹線で駆け付け、総勢89人が洛西の地での再会を喜び合った。

 この中には、26年から31年まで美術担当で奉職した二木栄子先生(59)=函館在住=と、27年から3年間、社会科を教えた林幸一先生(60)=現伊達市教委=の元気な姿もあって、参加者の中には30数年前にタイムスリップしたかのような人もー。

 食事のそこそこに、時間のたつのも忘れて語り合っても思い出は尽きず、寄せては返す波のように、夕張で過ごした少年期の話に、いつまでも行きつ戻りつしていた。

 その校舎も今は朽ち果て、やがて鹿島の地そのものが夕張シューパロダムに水没する運命にある。

 これら卒業生には、夕張は永遠に故郷であり続ける。

 が、生まれ育った三菱大夕張は、47年に閉山。夕張市の市政そのものも苦境にある。感涙に胸を打たれた反面、故郷を奪われた者の悲しみと怒りを見た気がしたといったら、うがち過ぎか。

 夕張の再生を願ってやまない。

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