夕張東高等学校 晩年の校舎

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明石町駅の横の道を上った高台に夕張東高校は建っていた。

1983年(昭和58年)に閉校となった後、母校跡には記念碑が立っていた。

そしてダム完成後は、鹿島眺望公園として大夕張にあった碑が集められた。

『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)には昭和45年頃の写真としていたが、今見ると、体育館の窓ガラスの様子といい、あまり良い状態ではないように見える。

だから閉校後の写真のようにも思える。

都会ではその頃、学校校舎の窓ガラスが投石によって割られるという事案が、けっこう世間を賑わせたこともあった。まさかとは思うが、そんな様子にも見えなくはない。

 

 

  

次に掲載するのは、今から20数年前『ふるさと大夕張』に載せた40歳頃に書いた自分の「思い出の作文」。大夕張を出たことがなかった自分にとって忘れられない経験をさせてもらった。

『ふるさと鹿島二十五年の会』は、1997年に発足したが、当時新聞によってそのことが伝えられていた。

 

 

 

 


 

 

 

私は中学卒業と同時に札幌に出てしまいました。ですから東高の出身ではありません。ですが,昭和45年頃中学生だった私は,友人4人と東高の先生に英語と数学を習っていたことがあります。その先生は,内山雄平先生といって,東京理科大を出たばかりの若くて眼鏡をかけた熱心な先生でした。高校では,数学の担当だったと聞いていました。勉強以外にもとてもよくしてくれて,一番の思い出は夏休みに,先生の実家のある函館に私たち4人を連れていってくださったことです。行きも帰りも先生の愛車(当時,発売されたばかりの空冷式エンジンのスズキフロンテ)で,連れていっていただきました。長い道のりを5人,お世辞にも広いといえない車内と空冷式のエンジンの出す大きな音が響く旅でしたが,そんなことも懐かしく楽しい思い出です。函館では,内山先生の自宅に泊めていただいて,七重浜で海水浴を楽しみました。生まれて初めて見たうにの刺に驚き,しかも先生が「生で割って食べるとおいしいんだよ」といってぱっくり二つに割って食べたのをみて,また驚きました。14才の私にとって,函館の夏は印象深く,初めて見た都会の夜景や,大夕張にはなかった暑い夜,一つ一つが印象的でした。そ の内山先生は,50才くらいになられているはずですが,今はどこにおられるのでしょうか・・・。


(98/01/20)



【ふるさと鹿島二十五年の会】

1997年5月25日の道新に,第5期生(1969年卒)卒業生43人が夕張市で同期会を開き,母校跡や炭住街を訪ねたという記事が出ていました。
この会はその後,鹿島小,鹿島東小,鹿島中,の同期の輪を広げ同年11月15日札幌市内のホテルで,「ふるさと鹿島二十五年の会」(高田隆二会長)を旗揚げしました。

ふるさとの水没と引き換えに,ここ1,2年は,私たちの親の世代ではなく,昭和30,40年代に子供時代を大夕張で過ごした世代の,同期の会やふるさとの会のようなものが旗揚げされる動きがふえてくるのではないでしょうか。


白黒写真に着色した画像

 

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