竜田の沢に埋設された土管にもぐる|高橋正朝 #43
例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。
昭和24年頃の常盤町
昭和22年
昭和52年
1番上の写真を見ると、埋め立て前の竜田の沢が、∨字形に写っているのがわかる。 やや下の9時の方角には、常盤橋が見える。
私が、鹿島東小学校4年生の7月初旬、埋め立てた竜田の沢に埋設した土管にもぐって行ったことがあった。 他に、1人いたが、誰だったか覚えていない。
常盤町側の土管の出口から入り込み、上流側に行った。
土管の直径は約1.5メートルぐらい。 そのころは、雨はあまり降らなかったせいで、土管に流れている水量は大したことはなかった。 しかし冷たかった。
土管は緩やかな勾配で直線である。 したがって、土管には、入口と出口から陽射しが射し込んでくるので、歩くには不便はなかった。 クツは2人ともゴムだったので、流水の中をジャブジャブと歩を進めた。
土管の入口の陽射しが見えるので、恐ろしさはなかった。 ただ、炭鉱やトンネル工事などで起きる崩落事故みたいなことが発生したら、オレらは生き埋めになるな、と言いながら、土管の入口にたどり着いた。
土管は、道路と鉄道が並んだ幅の地面の下だから、大ざっぱにいって、100メートルにはならなくても、それに近い距離だったろうと思う。
土管を出て上を見上げたら、雲ひとつない青空のなかの、陽の光が眩しかった。 そこから土手を登って鉄道にたどり着くわけだが、これまた、標高差は、100メートルぐらいあったろう。 この土手には道はなく、草に掴まりながらよじ登った。
この竜田の沢に敷設された鉄道の明石町寄りに、畳1枚にもならないような小屋があった。 その小屋の入口には、赤地に黒文字で、火気責任者の名札がぶら下がっていた。
鹿島東小学校の3〜5年生のとき、明石町から南部に、徒歩で何回も往復したことがあったが、同じサイズのこのような小屋は、数カ所あった。 たいてい、土木工事で、山を削り取ったところにあった。
このような小屋は、鉄道と道路工事の初期には、発破を保管し、その後は、鉄道の保線用の何かを置いているのだろうと、小学生の少年は、勝手に想像していた。
たま〜に、大夕張の子ども時代に線路伝いに歩いたことを思い浮かべるが、あの小屋の使用目的は、いったい何だったろうかと、老人になった今でも気にかかる。
(2021年6月5日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
山からシューパロ川に流れ落ちる沢、埋設された土管にもぐった話はけっこうあるようです。
久々湊さんや、Kawauchiさんが、宝沢の土管を泉町側から、緑町側から入った思い出もあります。
自分が埋設された土管の存在に気がついていたのは一カ所だけでした。
そこは遊び場となっていた礦業所ゲート(大夕張炭山駅前)の崖下にあった沢から、最後は、道路の下に埋設されてた土管に流れていきました。
「この先はどうなっているのだろう」と、今思えばその先はかなりの急な高い崖になっていただろうことは、想像できますが、当時はそんなことも想像できませんでした。
ただ、その疑問を解決するために、暗くて気味の悪い土管に入るほどの勇気はなく、遠くから気になるその存在を眺めていただけでしたが。