昼食時に放送で流れた音楽や先生へのインタビュー|高橋正朝 #204
鹿島中学校に放送室があったのは覚えている。 職員室の並びに位置していた。
団塊の世代が鹿島中学校に在席していた当時の放送室と昭和46年の教室配置図にある放送室の位置は、私の記憶だと、同じである。
この配置図では、左の室は校長室となっているが、我々の在籍時には、校長室は、反対側、すなわち、職員室に入ってから左側にあった。
いずれにしても、放送室が職員室の並びにあったのは、緊急放送などのとき、職員室からの動線を短くするためのものだろうと思う。
この列には、確かな名称は覚えていないが、生徒会室だったか生徒会役員室だったかがあった。
団塊の世代のときの給食室は、昭和46年の教室配置図の物置だったのではなかろうか ••••••。
食材を外部から搬入となると、調理する場所は、搬入場所から短い距離ほど合理的だからである。
我々のときの給食は、汁物だけだったが、昭和46年の鹿島中学校では、完全給食になっていたのだろうか?
保健室の位置は、配置図の校長室だったか、その列の図書室であったか、曖昧な記憶だ。 しかし、職員室があった列だったと思う。
ここからようやく首題 ••••••。
たしか、クラスには、放送委員という役職があった。 図書委員という役職があり、この委員のバッジは黄色だったが、放送委員のバッジの色は覚えていない。
この放送委員の仕事に、昼食時に、放送で音楽を流すというのがあった。 音楽でなく、放送委員が、先生に質問し、先生がそれに応える、というインタビューがあった。 1〜2年生のときは、音楽だけだったが、3年生の9月ぐらいから始めたものだった。
第1回目のインタビュアーは、私が鹿島東小学校の4〜6年生、鹿島中学校2〜3年生で同級になった、苗字が H という女子生徒だった。
彼女は、この放送については、クラス仲間には事前に言ってなかったので、彼女の声がスピーカから流れたときは、みんな、?という感じで聴き始めた。
インタビューされたのは、当時、3年 H 組の担任で、英語教師の野坂和也先生だった。 我々は I 組だったので、隣りのクラスだ。
質問はいくつかあったが、一つだけ除いて、他は覚えていない。
その一つとは、
H •••••• 『 先生は、外人と英語で話したことがありますか? 』
野坂和也先生 •••••• 『 ええ、何回もありますよ 』
この質問をした気持ちは、私にはよくわかる。
大夕張だと、教会関係の外人を見た人たちもいたろうが、明石町や常盤町に住んでいた人たちは、外人を見る機会はなかった。
私が、外人を初めて見たのは、鹿島中学校の3年生のとき、明石町駅の前に佇んで、炭住街を眺めていた白人だった。
素性はまったく知らない。
みんな知ってのとおり、陸の孤島に住んでいた我々には、外人と接触する機会は皆無だったといっていい。
教会に行っていた人たちが、外人と接触していたことがあったのは、この〘 ふるさと大夕張 〙を読んでからのことだった。
そういうわけで、大夕張に住んでいる我々にとっては、英語で外人と話すということができるということは、羨望というより、驚嘆が先になる。 それで、 H は、質問したのだろう。
別な日には、他の先生へのインタビューがあったが、それらはまったく覚えていない。
(2024年7月6日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:taka-jp@outlook.com (メール宛先変更になりました)
昭和46年時、つまり自分が中学生の時は、まだ完全給食実施前の補食給食、牛乳と汁物だけが提供されていたと思う。
弁当は持参した。その弁当を食べながら聞いた給食時の校内放送で、当時の流行っていた曲を聞いた。
森山良子の『この広い野原いっぱい』
フォーククルセダースの『帰ってきたよっぱらい』
・・・
フィフスディメンションの『輝く星座』は、給食放送で初めて聞いて、「ああいい曲だなあ」と思った。
この頃から少しずつ当時流行っていた『洋楽』にハマっていった。
ところで学校にこれら楽曲のレコードがあったとは思えない。
当時の放送委員が自宅から持ち寄って、流していたものなのだろう。
自分が初めて栄町の三津野電機でEPレコードを買ったのは、中学3年生のことだった。
奥手だったのもしれない。