暮れの餅つき | ziny

19325


 毎年12月28日は代々木町の我が家の餅つきの日でした。

 
 昭和30年代、この末広がりの日には、しめ飾りをつけるのと餅つきでしたね。

 

 外はシンシンと雪が降っている。

 

 
 玄関の障子(ある時期から飾りガラス戸)をはずし、隙間風よけに目張りをしたビニールの上に、新聞紙も所々貼ってあった。

 

 これは餅をつく時に飛び散ってこびりつき汚れるのを防ぐためでした。

 

 あの狭い玄関のコンクリのタタキで、よく餅をつけたものだと感じてます。

 

(いとこのn山m男君ちの栄町のブロックのもっと狭い玄関でもついていましたね。)

 

 
 フジキ式の真っ赤に燃えるストーブの上には、大きなごはん釜のうえに、木のせいろが3段に重ねられ、蒸気機関車のようにしゅっー、シュッーと、勢いよく湯気を吐き出していた。

 

 前の日には小豆を煮て、あんこ餅用のあんこもできていた。

 
 我が家では男の子3人の食べ盛り、10臼ちかくついていたような記憶です。

 

 

 
 秋に採っておいた『よもぎ』でヨモギ餅、豆を入れた豆餅、そしてアンコ餅、きな粉であべかわ餅。

 

 

 その頃は今は亡き元気な親父が杵を持ち、じいさんが返しをしていた。

 

 私もやらせてもらったが、こねるのはまず大変で、つくと時々臼のふちをつき、木屑が混じってしまった。

 

 つきたてはプチ、プチとどんぶりに切りいれて納豆餅、これがとってもうまかった。

 

 そしてのりと醤油で磯辺餅、大根おろしのからみ餅など。

 

 玄関横には板を敷き、粉を撒いた上に、最初はお供え餅を作り神棚、仏様へ。

 

 それから後は四角く並べられ、奥の部屋にはタチバン(裁ち板)を敷いてその上にも並べられた。

 

(普段はタチバンを滑り台にしてよく遊んだものでしたが、この時期は遊びもしばらくお休み。)

 

 つきたては隣近所に数個ずつご相伴に配られた。

 

 

 これを配るのは子供の役目でしたが、恥ずかしくていやだった。

 

 でも、お返しにお菓子やカルピスジュースなどをいただけるのが楽しみでもあった。

 
 そして、暮れから正月は餅、もち、モチの毎日・・・

 

 

 

 三が日が明けて白い暖かい納豆ご飯が食べたくて、食べたくてといった記憶です。

 

 

 堅くなった四角い餅を切るのも大変。

 

 手に豆ができた。

 

  

 

 冬中焼いて食べましたが、後半は青カビを拭き払い、拭き払い焼いたものでした。

 

 
 その後、ちん餅と称して購買会や生協に頼む人が増えていったのでしたね。

 
 年末の懐かしい思い出でした。

 

 

 

(2002年12月28日 記)


思い出ばなし

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