炭鉱とともに 昭和46年 主婦会坑内見学 昭和46年(1971年)7月4日、主婦会の坑内見学が行われた。 主婦会坑内見学の写真が、実家にありました。(2020-10-30) 大夕張労働組合解散記念誌『未来にむかってたくましく歩もう』の7月4日『主婦会校内見学』とあります。 この年は、同日に大夕張・美唄の合併式の日、そして、7月は、ばん… 続きを読む
炭鉱とともに 三菱南大夕張炭砿全景 昭和50年頃。道路は右に、大夕張。左に清水沢。写真左手に南大夕張駅が見えています。 上空からの南大夕張炭砿を撮影 【本間正雄】 南大夕張炭鉱全景は昭和40年後半から50年前半のもの。 写真の下半分から右に白いラインがのびて、曲がって上に延びてる(1部緑色)のが、ズリ運搬のベルトコンベアの構築物… 続きを読む
炭鉱とともに 北菱炭鉱ポケットより北夕炭鉱ポケットを望む 北菱炭鉱ポケットより北夕炭鉱ポケットを望む 【奥山道紀】 2003/04/23(Wed) 23:11 遠幌・南大夕張間の光景です。 この炭鉱のベルトコンベアの下をくぐると大夕張が間近に感じました。 北夕は昭和45年、北菱は昭和47年の閉山です。幌南中学が近くにあります。 地底での汗の結晶 【村田… 続きを読む
炭鉱とともに 昭和18年 鹿島国民学校 教職員勤労報国隊 三菱大夕張炭鉱 更衣所(進発所)前 戦争の激化とともに、人手不足を補うため、外国人労務者や、昭和17年には京都から挺身隊が入山しました。 鹿島国民学校教職員による報国隊が組織され、日曜動員で、採炭作業に従事しました。。 当時の学校の日常が、戦争中を回想した次の文章にも出ています。 https:… 続きを読む
炭鉱とともに 第27回メーデー(昭和31年) 先頭を行く看板に「第27回メーデー」の文字が見えます。後ろには大夕張炭砿労働組合の旗が翻ります。第27回メーデーは、昭和31年。場所は不明ですが、緑町から宝沢(岳富町)方面に向けてのあたりにも見えます。 先頭を行く看板には、立ち上るキノコ雲の絵に、『再軍備絶対反対!!』の文字が読み取れます。他に… 続きを読む
炭鉱とともに ズリ山 昭和40年頃 採掘された石炭のうち、廃棄する捨て石をズリといい、長年にわたって積み重なった結果ズリ山ができる。同じ炭砿でも、九州辺りの炭砿では、同じものをぼた山と呼んでいるそうです。「ズリ山・ぼた山」昭和30年代、子どもだったからなのか、特に使い分けずに、両方の呼び名で呼んでいたような気がします。… 続きを読む
炭鉱とともに 昭和38年頃 進発所 昭和38、9年頃 『進発所』、以前は『更衣所』といっていたようです。 昭和40年以降、自家用車での通勤が増え、閉山前には、この駐車場いっぱいに自家用車がとまるようになっていたということです。… 続きを読む
炭鉱とともに 昭和8年 三菱鉱業大夕張礦業所全景 大夕張礦業所 炭住街 1933年(昭和8年) 開鉱まもない頃の礦業所と炭砿住宅の街並み。開鉱したばかりで人口も増え続け、街が発展していく勢いがあったころ。… 続きを読む
思い出貼 労働組合の大会(協和会館) 昭和40年頃 炭労の大会。 協和会館 【飯田雅人】 私の小中学生の頃の記憶の協和會館は怪獣映画と植木等のサラリーマン映画,森繁の喜劇映画という映画の思い出そのものですが,様々な行事や催しがここで行われていました。 組合の各種大会,芸能人のショー,中学校の合唱団のコンサート等々の催事。 … 続きを読む
炭鉱とともに コークス場 コークス場の記憶 【saitou】 父が発電所で働いていたので、ここを通って時々遊びに行きました。 上の方の小さな窓から真っ赤に燃えた中が見え、子供には少し怖いところでした。 女性も結構働いていたような記憶があります。 コークス場 【奥山道紀】 コークスは石炭を蒸し焼きに… 続きを読む