回想・随筆

日々生活の中で、ふと、あの日、あの頃を思い出す。ふと書き留めてみた過去の出来事、思い。

鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範 随想

鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範

解体工事 標識 期間(平成11年11月1日~12月15日)  鹿島小学校が取り壊されるとの事、  本当に本当に・・・・・さびしいです。  今月ですか?  昨年、私は、親友2名とグランドでキャンプをしました、  今年も、と思っていたのですが、なかなか予定がつかずにいます。  親友は、田森睦夫、遠藤直樹…
私の大夕張 |菅井宏史 随想

私の大夕張 |菅井宏史

昭和33年の富士見町6丁目付近の地図に、赤い線で位置を示したもの。写真は、1997年6月撮影。木と、道の跡が残る。    思わず懐かしさがこみ上げ、『ふるさと大夕張』を見ている内に、色々と当時の思い出が蘇ってきました。    私は、昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に(昭和37年か3…
親父のものがたり |Kawauchi Masami 思い出の記

親父のものがたり |Kawauchi Masami

 よくわかりませんが、親父は、いいとこの坊ちゃん、らしいのです。  家は軍馬を育てる大地主で、お祖父様は、沼崎部隊々長でした。大きい家で使用人も沢山居たらしく、お祖父様の名前は、沼崎一男といいます。  結婚していた沼崎一男は、西田さんという 妾を作ります。  なんの縁か、母親は若い時に一人で行ってま…
初音沢地区 |目黒則男 随想

初音沢地区 |目黒則男

  我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていたようです。   チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたりを初音沢と呼んでいました。  私の父が、炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に住んでいました。  通学には大変苦労した記…
ポンプ その2 | 高橋正朝 #48 続・大夕張つれづれ

ポンプ その2 | 高橋正朝 #48

 私が鹿島中学校の2年生か3年生のときである。  学校から帰った夕方の4時ごろで、家には私1人だけで、妹弟は遊びに出ていていなかった。        テレビを見ようと思い、スイッチを入れた。  明石町番外地は、テレビ放送の受信状況が悪く、そのときは特に HBC と STV の画面の映りがよくなかった…
営林署のアルバイト | 大阪の小林 思い出ばなし

営林署のアルバイト | 大阪の小林

昭和50年頃 三菱南大夕張鉱業所とともに、南部貯木場が大きく広がる    小生は、昭和40年7月中旬から、8月中旬までの1ヶ月間、南部にありました大夕張営林署の南部貯木場で、大学の友人2人と共にアルバイトをしました。  当時の貯木場の写真や、写真をお送りした経緯はこちらのホームページにもアップロード…
故郷を連想するうた | 野口美代子 随想

故郷を連想するうた | 野口美代子

 近くに住む人は気軽に、遠くに住む人も距離も時間もなんのそので大夕張へ行く。 25年会の便りを読んで私も思いは大夕張へ。  大夕張を思い出す歌のひとつに「懐かしのバァージニア」というのがあります。  ちょつと昔、流行ったので、お若い方達は、ご存じないかと思いますが。   バァージニアを大夕張に置き換…
大夕張への想い | 目黒則男 随想

大夕張への想い | 目黒則男

 昨年6月、父の病気のお見舞いのため、静岡から札幌の実家を訪れました。  そのおりに母から、 「鹿島小学校が廃校になるみたいだよ。」 と聞かされた。   続けて、 「大きなダムができて大夕張が沈むみたいだよ。」 の言葉に一瞬なんのことか、すぐには理解できませんでした。  私が18歳の頃、大夕張から札…
昭和50年代大夕張と大聖寺解体法要|KAZ 随想

昭和50年代大夕張と大聖寺解体法要|KAZ

 札幌市在住の27歳会社員です。   私も一時大夕張に住んでいたことがあり、懐かしさのあまりすべてのページを印刷し、ファイリングして飾ってあります。    諸々の事情で当時住んでいた札幌の団地から、親元を離れ祖父母の住んでいた大夕張に、私一人預けられ、そこで幼年時代を過ごしました。昭和51年頃だと思…
ポンプ その1 | 高橋正朝 #47 続・大夕張つれづれ

ポンプ その1 | 高橋正朝 #47

 例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。    昭和43年鹿島東小学校周辺住宅地図    前回、汽車通学の項で、清水沢駅で、夕工高に行くのに、夕鉄に乗り換え、と書きましたが、奥山道紀さんから、夕鉄でなく、国鉄夕張線だという指摘がありました。 そのとおりです。 間違いをお詫びいたします。    …
便所場球場 |岡本雅志 随想

便所場球場 |岡本雅志

   昭和43年8月9日。  私の誕生日に大夕張駅前のメインストリートを出て東京へ引っ越しました。   私は小学校6年の夏休みまでしか大夕張にはいませんでしたが、私の兄、姉は皆、鹿島小学校→鹿島中学校を卒業しています。  当ホームページに寄稿されている小林光志氏の紹介で、大夕張のホームページの存…
懐かしき「大夕張」| 結城雅司 随想

懐かしき「大夕張」| 結城雅司

 神奈川県川崎市に在住しています。 昭和34年1月、大夕張千年町にて生を受け、3歳まで居住しておりました。   その後、夕張市旭町、札幌市、東京都をへて、現在に至っております。  たまたま、道内のHPを見ていましたら、飯田様の「大夕張」HPを見つけ、拝見したところです。  数々の写真・メール等を拝見…
不思議な話|Kawauchi Masami 思い出の記

不思議な話|Kawauchi Masami

 昭和35年 私が幼稚園の頃、外で遊んでいる時の事、家の前の下水に、ミミズがいて、私は小便をかけ遊びました。  その夜、チンチンの先が赤く腫れ上がり、痛みました。  父さんに、言ったら 「お前、ミミズにオシッコ かけなかったか?」  と聞かれ、私が 「かけた」  と、言ったら 「明日、ミミズに ゴメ…
「べんじょば球場」の思いで|成松 泰彦 思い出ばなし

「べんじょば球場」の思いで|成松 泰彦

   緑町と弥生町との境界の道路を春日町の方に降りていくと、つり橋があったのを覚えてますか?  そのつり橋を渡ったところの球場が、なぜかしら《べんじょば球場》と、呼ばれていました。   私の父はハンターでもありまして、熊が出没したという連絡が入れば、熊退治に出かけて、よく射止めてきたものです。  当…
汽車通学|高橋正朝 #46 続・大夕張つれづれ

汽車通学|高橋正朝 #46

例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。       昭和47年 国土地理院 空中写真 三菱(鉱)バス 山内線 路線図(路線・停留所名)  上記は、バス路線図だが、大夕張方面から鹿島中学校へ行く経路と、東高校( 鹿島高校 )へ行く経路を比較するのに便利なので、以下の文章のために、コピペしました。…
鹿島国民学校時代と戦後の思い出|T・A 思い出ばなし

鹿島国民学校時代と戦後の思い出|T・A

鹿島小学校グランドは、大夕張住人にとって、最大のコミュニケーションの場所でした。 カエデの木は、その歴史を見つめてきたのです。  昭和17年、国民学校入学。その頃の出来事・・・。  戦前戦中の児童は、校門を通るとき教会のあった場所の奉安殿に向かって、お辞儀をしてから校内に入るのが習慣であった。   …
明石の沢からの水汲み |高橋正朝 #45 続・大夕張つれづれ

明石の沢からの水汲み |高橋正朝 #45

明石沢の鉄橋。平成11年8月に国道から撮影。閉山以降、サイクリングロードとして利用されていた。  以前、服部商店横の、消防用水の溜池のときに書き込んだ内容と一部重複しますが、飯田さんが編集した年表を見ると、   1953年( 昭和28年 )11月に、明石町専用水道が創設される。明石の沢の取水堰より、…
緑町山車の三味線少女 |Kawauchi Masami 思い出の記

緑町山車の三味線少女 |Kawauchi Masami

白黒写真に着色した画像   北菱から師匠の大夕張に、緑町の山車での演奏  昭和44年 大夕張炭山祭り。山車に三味線で乗ってます。  お祭りは小学校5~6年生で、後に私のお嫁さんになりました。  当時妻は、北菱炭鉱に親が働いていて、大夕張のお祭りに、三味線で呼ばれたそうです。  大夕張のお祭りが盛大な…
山車の三味線(お祭りと師匠さん)|Kawauchi Masami 思い出の記

山車の三味線(お祭りと師匠さん)|Kawauchi Masami

昭和44年 緑町の山車の三味線。師匠とお弟子さんで演奏。 白黒写真に着色した画像   「みどり」町の提灯がかかる山車の上で    お祭りの神輿道路の交差点や町境などで、上下に大きく揺らしながら、「わっしょい。わっしょい」と、その場で神輿を回すのが一番好きでした。    もちろん交差点のど真ん中でね。…
山祭りの御輿かつぎ |内川准一 思い出ばなし

山祭りの御輿かつぎ |内川准一

   「山祭り」の陽気に誘われて出て参りました。   さて、忘れもしない御輿担ぎ。    出発は弥生町の詰所裏。    到着場所は、千年町のさてどこだったっけ?という程度の記憶ですが。     この日のために、詰所裏の倉庫?から、一年ぶりに引きずり出されるのは、鳳凰のついた立派な御輿。    これを…