随想 1970年のころ | 宇良田 彰 1970年(昭和45年)は、世田谷の下北沢にいました。 札幌から東京に移り、一種のカルチャーショックを受けていた時代でした。 目的が定まらず、単位を取るために学校に通う毎日でした。 目的が定まっていないということは、色々なことに手を出しては火傷をし、熱いと感じて手を元に戻すことに似ています。… 続きを読む
続・大夕張つれづれ サイレン |高橋正朝 #18 私が物心ついた時分から、明石町では、定刻を知らせるサイレンが鳴っていた。もしかすると、戦前からそうだったかもしれない。 かなり大きな音だった。明石町の全域に知らせるためだったから、それなりの音量が必要なのは、子ども心にも理解できた。 鹿島東小学校に通うようになって、幼児のときより活動範囲が少し… 続きを読む
思い出ばなし 青春 アルバイトの思い出|ziny 夕張東高校・・・・雪の降った日の登校風景は、砂糖の丘を一列になって登る蟻の行列の様。 一列で前の足跡を踏みながら、雪の坂道を上る様子は、まさに、蟻ですねー・・・、鹿島の勤勉な蟻の姿そのものです。 しかし、暖かい部屋でギターを弾いていたキリギリスもいたかもしれませんが・・。 東高5期、昭和44… 続きを読む
随想 ポリオ(小児マヒ)の流行 |准 1959年に指定伝染病に指定されたポリオ(小児マヒ)は、翌1960年からは、さらに勢いを増し、全国で猛威を振るった。 北海道では5月に、夕張地区(大夕張)で大流行し、全道に広がって106名の死者を出した。 自衛隊によるDDTや石灰の散布は行なわれたが、道内45万人の幼児に対しワクチンは3万人分し… 続きを読む
思い出ばなし 子どもたちの冬|ziny 冬、八百五十へ行く道や、神社の上の方には兎の足跡がよくありました。 鹿島小学校の石炭庫、物置?にも、兎とりのハリガネの罠があったような記憶があります。 当時の鹿島の冬の子供たちの仕事は、ジャンプ台作りでした。春日町の坂道・・私はりき(じき)しんの坂でした。道を90度に横切りジャンプ台を作りまし… 続きを読む
思い出の記 初めてのアルバイト|Kawauchi Masami 昭和43年、中学2年生の冬、2月ごろでした。 アルバイトはその日、20~30人ほどいたでしょうか? アルバイトに行く人は、スコップ持参との事でした。親父は、前の日にスコップの柄の所に、手に雪が付かない様に縄でドゥナツの様なワッパを付けてくれました。 そのスコップを持って、朝7時ごろ迄に、大夕… 続きを読む
思い出ばなし 明石町の思い出 |邦雄 明石町で、昭和27年に生まれて、小学4年迄住んでいました。 幼稚園には、汽車で通い、車中でチリ紙を長く切って、窓から手を伸ばして遊びました。 鹿島東小学校へは徒歩で通いましたが、今思うと自宅からは、2~3㎞くらいはあったのではないでしょうか? 学校帰りは、友達とぶらぶら遊びながら帰宅した事が楽… 続きを読む
続・大夕張つれづれ CMソング 楠トシエ | 高橋正朝 #17 続•大夕張つれづれ#14で、『 三つの歌 』の述懐から、天地総子の『 パンシロン 』の CM ソングに言及しましたが、じつは、この『 パンシロン 』の CM ソングを初めて聴いたとき、てっきり、楠トシエ が歌っているものと思っていました。 当時、CM ソングの歌手と言えば、楠トシエ が圧倒的に有… 続きを読む
思い出ばなし 佐藤キンセイ堂時計店の思い出|小野美音子 懐かしいスピッツのことを思い出しました。 栄町の佐藤時計店の御主人は、髪がオールバックで、片方の眼に黒い筒状のレンズをはめて、いつも修理にいそしんでおられました。 (そのレンズが瞼からどうして落っこちないのか不思議でした^^) 同級生のテッちゃんと、姉のユミちゃんには、幼稚園の頃ずいぶん仲良く… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張線路沿いの出店|海好(うみこ) 出店で父に買ってもらった指輪とブローチは、今でも宝石箱に入れて大切にしまってあります。 お面や、カラーひよこも買ってもらいました。 家族みんな浴衣を着て撮った写真があります。(わたしたちこどもは、ひよこを抱いて・・・) 浴衣にひよこ・・・って、8月のお祭りのようです。 そうそう、6… 続きを読む
思い出の記 磯次郎の沢のビーバーダム | Kawauchi Masami 昭和35年頃の磯次郎の沢【白黒写真に着色した画像) この写真は、磯次郎の入り口です。 行っても、行っても同じ様なカーブが続き、終いに何処まで来たか、わからなくなる様な光景でした。 その中でも、一つ一つのカーブの特徴を覚えていて、場所によっては切り立った崖があり、そう言う所に山苺がへばり… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 大連でのテレビで見た白金の 森本 さん|高橋正朝 #16 私が、中国の大連にいた当時、3年間はホテルに住んでいた。 外交官や特例を除き、当時の中国では、たとえ、『 労働許可証 』を所持していたとしても、国籍を問わず、外国人の宿泊は、当局が認めたホテルでなければいけない時代だった。 我々が宿泊していたそのホテルは大型で、NHK 衛星放送を時々見ることが… 続きを読む
随想 二股峠 | 小林光志 昭和40年3月まで、夕張工業に大夕張から通学していました。 朝、7時05分?(15分?)少し高台にある大夕張駅から駅員が、いつも仁王立ちで、速く走るようにコールしていました。 いつも私は、春日町でしたが、かなり遠くからその姿を見てダッシュしていました。 駅員が怒る暇がないことをよそに、汽車に… 続きを読む
思い出の記 東京オリンピックとカラーテレビ|Kawauchi Masami 昭和39年 、1964年。 街は東京オリンピックの年で盛り上がっていました。 丁度、カラーテレビが普及し始めた時期で、まだ、一般の家庭では、高値の花でした。そんな時、あの池田屋食堂に、カラーテレビが置かれました。当時、19万円って、言ってた様に記憶しています。私が小学校4年生の時でした。 その… 続きを読む