回想・随筆

日々生活の中で、ふと、あの日、あの頃を思い出す。ふと書き留めてみた過去の出来事、思い。

食憶(その3 「へ」の字)|長谷川潤一 食憶

食憶(その3 「へ」の字)|長谷川潤一

 初雪、初氷、夕張岳にも白い雪が・・という時期になると思い出すものは何か?  そうです、漬け物です!  紅葉が進むと、あちこちの長屋の壁や洗濯物の物干し竿に、ずらーっと掛かっていたダイコンです。  縄で一本ずつ丁寧に縛られて、長屋の間にユラユラ、ブーラブラと山間の早い西日の中で揺れていました。  そ…
食憶(その2 食堂のお話)|長谷川潤一  食憶

食憶(その2 食堂のお話)|長谷川潤一 

 一回目の投稿からだいぶ間が延びました、のびついでの話でラーメン話を。  当然のこと、池田屋さんは幅広いメニューでメジャーでした。  思い出すのは、薄口色のスープのラーメン、ゆで卵などを抜いた「かけラーメン」、値段を抑えた「学生ラーメン」。  そして永遠に忘れられない味なのが、たこ頭型の銅板焼き饅頭…
木の摩擦熱で火を熾す試み | 高橋正朝 #24 続・大夕張つれづれ

木の摩擦熱で火を熾す試み | 高橋正朝 #24

 前回#23で、鹿島東小学校時代、レンズの焦点で、紙に火をつける試みを書き込んだら、それに対する飯田さんのコメントだと、やはり大夕張の少年時代、同じことをやっていたんですね。      この、虫眼鏡のレンズの焦点で紙に火をつける試みは、他の少年たちもやっていました。 しかし、どういうわ けか、近所や…
食憶(エピソード1)|長谷川潤一 食憶

食憶(エピソード1)|長谷川潤一

 先日、ちょっと息子の夏休みに同調して、家族で釧路方面に行ってきました。  和商市場で、鮭やイクラなどを買い込み、帰りの車の中で筋子にまつわる話をしました。  それは、採炭で先山をやっていた父のお弁当のおかずのことです。  父が現場に持っていく弁当のおかずの定番に、筋子がありました。  毎月14日の…
湯浅純治先生のこと |Kawauchi Masami 思い出の記

湯浅純治先生のこと |Kawauchi Masami

湯浅先生との出会い  鹿島小学校で、湯浅先生を初めて見たのは 3年生から4年生のクラス替えの時です。  私は1・2・3年生の3年間、女の佐藤良子先生でした。  その年、私は4年桜組で、校舎は、新校舎3階建ての1番下の一階でした。  職員室は2階か3階でした。私達は、玄関の横のクラスでした。私達は入り…
鹿島小学校の応援歌|内川准一 随想

鹿島小学校の応援歌|内川准一

 以前から思っていた応援歌の疑問が解けました。     鹿島小学校の応援歌は二つあります。  昭和36年の文集 「松風」 を見ますと、「運動会が6月4日に決まった。」とあり、続けてクラス担任が、 「歌詞が難しすぎて、意味が分からず、練習が前に進まない。」 と嘆いているのが笑えます。 以下はその応援歌…
大夕張のバンドブーム | Kawauchi  Masami 思い出の記

大夕張のバンドブーム | Kawauchi Masami

 うたた寝をしていると、ラジオから長渕剛の『乾杯』が流れてきました、1980年の曲です。  私は、1977年結婚したので、『乾杯』の詩が、なんか重なるような、気がします。  大夕張で知り合い、南部で大きな舞台に立ち、2人で歩き始めた道。色々な事がありました。ほんと、色んな事あったな〜。  協和会館別…
雪の結晶と雪印のロゴマーク |高橋正朝 #23 続・大夕張つれづれ

雪の結晶と雪印のロゴマーク |高橋正朝 #23

 大夕張で生まれ育った人だけでなく、北海道生まれの人にとっては、雪印乳業のロゴマークには懐かしさを感じると思う。 北海道生まれの大企業だから、ということよりも、雪の結晶に懐かしさを感じるのだ。      北海道生まれの企業ではあるが、本社は東京四谷にあり、東京在住者は知っていることだが、夜間、中央線…
奥鹿島の『三時間耐久レース』|Kawauchi Masami 思い出の記

奥鹿島の『三時間耐久レース』|Kawauchi Masami

 昭和56~59年(1981~85年)頃、明石町から開拓の奥、農家を辞めた地主さんに土地を、ただで借り、自分達でコースを作って、50ccバイクで『三時間耐久レース』をしました。 場所は奥鹿島分校からあと、橋を渡って500mぐらいの所です。  地主さんの名前は忘れましたが、「元は南部の下夕に開拓で入っ…
吹雪のなかでの登校下校 |高橋正朝 #22  続・大夕張つれづれ

吹雪のなかでの登校下校 |高橋正朝 #22 

 私が、鹿島東小学校の低学年だったころの大夕張の冬は、ずいぶんと寒かった。     私の年代の人は、皆、経験していたことで、『 ふるさと大夕張 』に書き込んだことの繰り返しになるが、頬骨に染み込むような寒さのときは、薄眼にし、眼を普通に開けようとすると、瞬間的にくっついていたまつ毛がパチッ、という感…
坑内にかかる盤圧 | Kawauchi Masami 思い出の記

坑内にかかる盤圧 | Kawauchi Masami

大夕張の坑道  今日は 坑内でないと 分からない 出来事 書いてみますね。  写真に写っているのは、採炭現場で天盤を押さえるカッペと言う道具です。   丸いピンと平べったいピンの、2本のピンで止めて行きます。払い(採炭現場)が進むと、後ろのカッペを外して、前に付け替えます。丸いピンだけなら、『お辞儀…
1978年・大夕張・再会 |斎藤敏幸 随想

1978年・大夕張・再会 |斎藤敏幸

 私は、閉山の前年に当たる1972年3月に夕張東高を卒業しました。  閉山後両親は、函館に居を構えました。  そのためか、大夕張に帰る機会もなく数年が過ぎてしまいました。  大夕張と再会できたのは、1978年の7月でした。  当時私は、釧路に住んでいましたが、職場の研修で札幌に出た時、帰ることができ…
村山貢 先生の色彩の授業 |高橋正朝 #21 続・大夕張つれづれ

村山貢 先生の色彩の授業 |高橋正朝 #21

     前回、「 電光オズマ 」の稿で、コラージュのことに触れ、村山貢 先生のお名前を出しました。 それで、村山 先生の授業のことを書き始めたら、表題とは無関係な内容の文章が長くなってきたので、その部分は打ち切り、次回、即ち、ここで書くことにしました。      村山貢 先生を初めて見たのは、鹿島…
八百五十スキー宿泊 |Kawauchi Masami 思い出の記

八百五十スキー宿泊 |Kawauchi Masami

大夕張から、八百五十山頂。赤い線は、神社裏からの尾根伝いのルート。冬に八百五十のゲレンデに行くには、鹿島小学校裏から、宝の沢に沿ってのルートがあった。八百五十のゲレンデは、山頂直下の急斜面の下の緩やかな傾斜地だった。その傾斜地の途中にヒュッテがあった。 (目 次)   準 備   出 発   山小屋…