随想 母と大夕張 |あずき 私の母は親が営林署勤務であったこともあり、小学校時代は道内あちこちを転々としていました。 母は昭和42年ごろ、1年間だけ大夕張に住んでいたそうです。 錦町に営林署があったはずです。 母はその裏手の線路端にある職員住宅に住んでいたそうです。 そのころはまだ大夕張にも1万人以上の… 続きを読む
随想 千年町の思い出 | 菅井宏史 私にとって千年町は長らく住んでいた富士見町に次いで思い出深い町です。 といいますのも、実はわずか数カ月の短い間でしたが、何を隠そう千年町の住人であったからです。千年町界隈をよく自転車で走り回ったものです。(ああ、なんて懐かしい写真!) 『散歩道』の千年町住宅地図でパチンコ店と消… 続きを読む
随想 1964 東京オリンピック | ziny 昨日、今日と台風18号はすごい雨と風の勢いでした。 昭和37年の夏の記憶ですが大夕張にも台風が来襲し、シューパロ川の磯次郎のあたりには、吹き飛ばされた木が、ざぶ、ざぶと流れてきたのを思い出しました。 我が家の鶏小屋の屋根も吹き飛ばされました。 東北、北海道の皆さま・・お気をつけ下さい。 2… 続きを読む
随想 3色トリノ | ヤス 街を買い物していたら かなり懐かしいオヤツに再会しましたよ。 自分が中学時代 鹿島 宝町に住んでいた頃 確か昭和53年位〜千年町町にあった、所商店でしたか、よく駄菓子やアイスキャンディーを買いに行きました。 少しお小遣いに余裕があれば、同級生の清水君の実家、志村菓子舗?でしたか、和菓… 続きを読む
随想 ラジオ体操 全国中継 |石原賢治 まだまだ暑い日が続きます。 台風一過でほんのり秋の気配でもと思いますが、もう少しがまんでしょうかね? 北海道はもう2学期も始っている様ですが、私の子供達は、まだ夏休み中です。 まだ、子供がちびの頃は、朝6時30分のラジオ体操に参加すべく、半分眠った状態でも無理やり起こし、公園広場に連れて… 続きを読む
随想 山麓の谷間に花咲かず-大夕張閉山初期のあゆみ 夕輝文敏さんが、小説『タイムカプセル』で、閉山後の大夕張の明るい未来を描いてみせた。 しかし、実際は上手くいかなかった。 閉山という地域崩壊の危機状況に直面し、現実に対応しながらその後の大夕張をよりよい方向に持って行こうとして努力した人々がいた。 ダムによる故郷喪失という状況の中で… 続きを読む
随想 小学校の通学区域変更 | 久々湊真一 私は昭和29年(1954年)に鹿島小学校に入学しました。 しかしながら 昭和30年末に学区の変更があって、小学校2年の終わりに強制転校となり、鹿島東小を卒業しました。 通学区域変更の内容は、泉町の川(宝の沢)を境に、千年町駅側は東小・大夕張駅側は鹿島小の区分けでした。 私なんぞは、 … 続きを読む
随想 父の描いた『大夕張10景』|野田卓見 『岳麓の里(大夕張10景)』におやじの(淑雄)の絵が載っています。 父は現在83才で札幌市北区屯田にいます。 足が弱って来て外に出る回数もめっきり減りましたが、まだ盛んに絵を描いています。 文章を書いている佐藤貞雄さんも、私と(昭和25年生まれ)同級の道子ちゃんのお父さんです。 伊藤清治さんは父に聞… 続きを読む
随想 私の恩人3 | 久々湊真一 宝町一丁目に、新聞記者をされていた(と記憶する)佐藤貞雄さんがおられました。 父の知り合いでもあり、何度かお宅にお邪魔をしました。 私がここで見た(驚いた)世界は、今振り返ると、大変重要な出会いでした。 それは、新聞のスクラップブックでした。 切抜かれた新聞記事は、各々コメントが附されて… 続きを読む
随想 ミミズの謎 | 内川准一 自分のことを言うと、物好きな人間で、興味がわくといろんな所に出向きます。 同時に、わからないことにはいつまでも拘泥するナンタラ質の面があるようです。 そんな私が、無農薬農作物を買いに、かみさんを連れて北広島まで出向きました。 そこで、虫食いの穴だらけのキャベツを発見しましたが、さすがにこ… 続きを読む
随想 校長先生の名刺 |みほ 高校を卒業し上京する前に、岩佐佐太吉校長先生にお電話したところ、 「お会いしましょう」 と、おっしゃってくださり、ランチをご馳走になりました。 校長先生は、六年生の時に理科を教えてくださり、その当時のことを思い出して、「とても楽しかった」と懐かしがられておられました。 実験の授業がとて… 続きを読む
随想 私の恩人2 |久々湊真一 三菱大夕張病院の鈴木昭先生を知ったのは、私が鹿島中3年の時でした。 この時に、病弱であった母が急に体調を崩し、入院かつ危篤状態になったのです。 当時内科部長であった鈴木昭先生が、 「この注射で大丈夫でしょう」 と言われて処置。 しばらく時間が経過した後に、母の顔に赤みが戻ってきました。 … 続きを読む
随想 大夕張へい山反対!|市橋勝 私が鹿島東小学校の5、6年生の担任の先生は水間テル先生でした。 優しく肝っ玉母さんのような「豪快さ」で、悪ガキだった私を見守っていてくれたことを思い出します。 当時、水間先生はクラスの私達に定期的に日記を書かせ、それを提出させていました。 しかも、丁寧なコメントを添えて毎回返却してくれ… 続きを読む
随想 私の恩人 | 久々湊真一 私の乳幼児時代は、「死んでもおかしくない」虚弱体質だったそうです。 当時の写真をみると、首に真綿を巻いているものが多く、何やら情けなくなります。 小児喘息も持っていて、呼吸が苦しかったことを、朧げに記憶しています。 幼稚園には、 「身体が弱すぎて預かりかねます」 と入園を拒否されました。… 続きを読む
随想 カメムシの富士見町 | 對馬良一 大夕張栄町で生まれ、代々木町、春日町、最後は富士見町で生活した、昭和10年生まれの男です。 現在、群馬県館林市に住んでいます。 近所に春日町にいた、和田力雄さんが住んでおります。 今年(2003年)10月18日に虎ノ門で東京夕張会、11月1日上野精養軒で大夕張会が開催されます。 又… 続きを読む
随想 蛍 |佐々木 先日、私の住んでいる岡崎市(愛知県)の「鳥川」という所に蛍を見に行きました。 今愛知県は梅雨の真っ最中ですが、そんな梅雨の晴れ間を見て、毎年子供を連れて、蛍見物に行きます。 確か、私が5~6歳頃に、当時の明石町で、蛍を見た記憶があります。 私が蛍を見たのは、その時が初めてでして、何かすごく感動した様… 続きを読む
随想 これからも |エヌ 東京へ出て来て30余年。 辛いことがあると思い出してしまう 故郷大夕張です。 若い頃は、昔のことは忘れて頑張るんだ、と思っていました。 しかし、50歳に近づき始めた頃からか、自分にとって故郷大夕張は、忘れられないところなんだと、気付き始めています。 仕事もきつく、羽田から千歳へ、そして大夕張… 続きを読む
随想 救急車の山口さん|愛知県安城市 H.K 父の遺品に少しずつ目を通しては整理し、大夕張を偲んでおります。 自分が赤ん坊の頃、父が鑑札(ナンバープレート)の付いた自転車に乗せられている写真や、虫垂炎で炭鉱病院へ行く時は、正月の大吹雪の中を、父がソリに乗せて引っ張って行ってくれたのを思い出したりしていました。 当時は盲腸になっても、生きる… 続きを読む
随想 春とどろんこ道 | ziny 春 さくら咲く ふるさとはたしか ぬかる道 私の記憶では、初めて詰襟(学生服)を着て、学生帽子をかぶって、今年80になるお袋が仕事を休んで、鹿島中学の入学式にいっしょに出かけてくれた。 昭和38年のときの今頃は、道がぬかるんでいて、つり橋(暁橋)を渡るために、千年町から降りる坂が、… 続きを読む
随想 何もなくなった故郷|石黒静治 私は昭和18年生まれ。 鹿島小から鹿島東小に三年生の時に転校し、常盤町5丁目6番地で過ごし、鹿島中学校を卒業するまで居ました。 それからは、ずーと関西にいまして、このたび45年ぶりにこの鹿島地区を訪ねましたが、なにもない故郷に愕然とし悲しく、寂しく、1日中、旧鹿島小跡に、座りこんでいま… 続きを読む