陳列棚 南部小学校閉校記念テレカ 1990年(平成2年) 南部小学校閉校記念のテレフォンカード 巡り会った母校 【福原勝枝(旧姓)】(2007/01/31(Wed) 23:10) さがして、さがして、やっと会えました! 私の故郷南部小学校、37年ぶりです。胸がいっぱいになりました。 今は跡形も無いと聞いて寂しいばかりです。幌… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和14年 大夕張尋常高等小学校 集合写真 昭和14年(1939年) 10月 大夕張尋常高等小学校(鹿島小学校) 写真の日付にある昭和14年10月、日中戦争から太平洋戦争へ突き進む世の中、19日には、最初の朝鮮人労働者177名が入山し、大夕張尋常高等小学校の人数も増え、校舎が増築(教室14・東側便所 使丁室その他546.75坪 学級数29,… 続きを読む
炭鉱とともに 北菱炭鉱ポケットより北夕炭鉱ポケットを望む 北菱炭鉱ポケットより北夕炭鉱ポケットを望む 【奥山道紀】 2003/04/23(Wed) 23:11 遠幌・南大夕張間の光景です。 この炭鉱のベルトコンベアの下をくぐると大夕張が間近に感じました。 北夕は昭和45年、北菱は昭和47年の閉山です。幌南中学が近くにあります。 地底での汗の結晶 【村田… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 遠幌駅から 清水沢方面 昭和40年頃。 この写真は、左手に遠幌駅の駅舎があり、ホームの向かい側から清水沢方面に向かって撮影されたもの。 線路の先には清水沢清湖町のアパート群が立ち並んでいます。 昭和48年『塩狩峠』(三浦綾子原作・松竹映画)の撮影が三菱大夕張鉄道を舞台に行なわれました。その際,映画の冒頭遠幌駅ホームが… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 遠幌駅から 南大夕張駅方面 昭和40年頃。 南大夕張駅方面を写した写真。 昭和15年木材積み出しの停留所としてスタートした遠幌駅ですが、北炭遠幌炭鉱の開鉱など、戦後は石炭の送炭も開始されました。 それに伴って,農地が主だった遠幌も炭砿の従業員の炭砿住宅など多くの家々が軒を並べにぎやかになっていきました。写真は木材積込み… 続きを読む
思い出の街角 昭和40年代 遠幌駅前 車窓の風景 【飯田雅人】 三菱大夕張鉄道の遠幌駅前の写真ですが,この風景は昭和40年頃、札幌-大夕張間を走ったバスの車窓から何度も見た印象の印象が強く残っています。 清水沢から左に道が折れて,このあたりまでくると山がぐっと集落の両側に迫り大夕張の圏内に帰ってきたという思いをもちました。写って… 続きを読む
思い出の街角 神社から泉町・鹿島東小学校方面 昭和30年頃 神社より一段したのあたりからとった写真だろうか。手前の緑ヶ丘のあたりがよく見えている。 列車が大夕張駅を出発したところで、進行中。まだ岳富町の商店街も出現していないようです。(建設中のようにも見えます)鹿島小学校も木造校舎のようです。 下は同じ方向を見た写真。 https://ooyu… 続きを読む
思い出の街角 昭和52年 栄町商店街(理容フレンド前から) 昭和52年6月 理容フレンドの角から、栄町商店街の方を見る。奥に三菱購買会。 昭和52年6月の写真。閉山後4年ほど経った時期。 お祭りの飾りつけなどもありまだ多くの住民の人が住んでいた。 この頃、鹿島は3000人ほどの人口であった。 反対側から『理容フレンド』を見た写真。 https://ooyub… 続きを読む
思い出ばなし 幼稚園の思い出|工藤 央 色々思い出に関してかかれていますが、私もひとつ思い出したことを書きます。 昭和44年頃だったと思います。 当時風邪をひきやすい体質だった私は(今は頑丈すぎるくらいです)、数日間幼稚園を休んでいました。しかし熱も下がり体調も良くなったので、久しぶりに幼稚園に行くことになったのです。 しばらくぶ… 続きを読む
思い出の街角 吉井快生堂・エルボン 昭和40年代、大夕張の駅前通り。大夕張郵便局から続く商店街。炎天下、水遣りのあとだろうか、道路が水に濡れている。北海道の山間の町でも短い夏の陽射しは強かった。 吉井快生堂の栓抜き 【泊川俊徳】(2006/06/19(Mon) 11:27) 毎年 正月初売りには景品が貰えると言うので、たいして必要でも… 続きを読む
昭和 1965年(昭和40年) 1月 1日,夕張鹿島高等学校から夕張東高等学校と改称。2月 異常集中豪雪(積雪量172cm)市内交通マヒ。3月 1日,鹿島簡易郵便局設置。 10日,『シューパロ』No.1発刊(夕張東高校郷土研究部機関誌)4月 炭鉱病院裏の隔離病棟跡に,三菱大夕張高等鉱業学校設置。(グラウンドは鹿島小学校のものを使用… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張でのお盆 【回想】 最後のお盆を過ごしたのは・・・ 【三浦ユキヒロ】 大夕張で最後のお盆を 過ごしたのは、何時だったかなーー 関西で暮らしていた時の、束の間の帰郷かな~ それが大夕張のお盆時期だったのかも知れないと、朧気な記憶の彼方から、細い絹糸を手繰り寄せる様に、脳裏に浮かんで来ました。 あの、裸電球に赤〃と… 続きを読む
訪問記 2002年お盆の大夕張|堀田正文 牛乳屋の息子です。お盆休みで大夕張へ行ってきました。 両親が住む紅葉山から、清水沢、南部を抜け建設中のダムを覗いてシューパロ湖を横目に、実家のあった元大夕張商店街にて、お弁当を食べてきました。 わずかに残つていた家屋も取り壊され、目印となるものもなく実家のあった場所もわかりづらくなっていました… 続きを読む
思い出ばなし お盆の花火|石原賢治 出張で実家(福岡)に寄り父親と話した際、お盆の花火のことで書いて欲しいといわれまして、ひと言。 お盆、8月15日(旧の盆)の夜、山神社脇から打ち上げ花火をあげていました。 専門の花火屋さんを雇うわけでなく、会社の社員の方で北沢さんという方が、あげていたそうです。 他にも何かの連絡ごとで、明… 続きを読む
訪問記 2007年お盆 無人街への里帰り| 泊川俊徳 お盆 本州から帰省された方も多いと思いますが、大夕張生まれの方々、今となっては家も人も住まない無人の街 かつての炭鉱住宅も無い。 昨年暮れから ダム工事関連施設が造られましたが 以前の街並みは土砂の山が並び 寂しい限り。 昔の賑やかな頃を知る人は 特に寂しい感じが強いのではと思います。 建物… 続きを読む
訪問記 2001年のお盆・・・ちゃんと聞けば良かった|長谷川潤一 昨日、小学生の息子の夏休みの自由研究が終わったということで、たぶん大夕張は晴れていて暑い!と一方的に思い、官行に泳ぎに行きました。 先客がいて、よく聞くと同期の田辺君でした。昔、大夕張で遊んだところは、みんな大人になってもリピーターで来るんですよね。 虻と戦いながら泳いだ帰り、鹿島小学校のグラ… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島小学校 小学1年生 昭和29年(1954年) 鹿島小学校1年生 学級写真 白黒写真に着色した画像 鹿島小学校 音楽室での学級写真 小学時代 【小林光志】 小学校一年生・・1954年(S29年)。 伊東先生・・怖かったな~ 私も相当悪だったので 一日おきに殴られてたな。 挙句の果てに 母親が毎月呼び出されて注意され… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 昭和48年 『団結』列車 No.4 発展する町 南部 【飯田雅人】 この場所は南部若美町の住宅群の前を走っている列車。昭和48年は,大夕張の閉山の年ですが,南部は,昭和45年出炭以来,新しい住宅もでき町としても発展していった時期でした。 昭和46年ころ,南部に引っ越した友人の家に遊びに行った時に,大夕張では,新築の住宅というもの… 続きを読む
訪問記 1997年(平成9年)お盆の大夕張|飯田雅人 今日,8月13日、大夕張へ行ってきました。 やっぱりお盆ということで、大勢の方々が大夕張に来ていました。結構、町中が人の動きでにぎやかでした。例によって、マスコミのカメラも来ていて、歩道橋の上から町の様子を撮影していました。 里帰りや私と同じように故郷を訪ね、今のうちに、目に焼き付けておこうと… 続きを読む