地図 八百五十 八百五十、はっぴゃくごじゅう、ほぼ850メートルの高さで、神社から続く山の名前です。赤い○で表したところが山頂です。大夕張の人たちは、スキーや軽登山などで馴染みが深く、歌の歌詞にも歌われるほどでした。 この画像の作成は,DAN杉本氏のフリーソフト「カシミール」で国土地理院発行の「数値地図50mメッシ… 続きを読む
パノラマ 大夕張駅上空から 昭和35年頃の大夕張。昭和33年に建設された鹿島小学校の校舎は映っていますが,大夕張駅前の道路はまだ未舗装のようにみえます。岳富町の商店街もまだ線路側に軒を連ねています。この他,鹿島小の土手側には昭和32年に千代の山一行が巡業したという土俵や(のち聖心幼稚園建設で取り壊し)グランドの一角に大きな木の… 続きを読む
思い出貼 二股停車場 明治45年(大正元年)まだ、南部が大夕張で、北部大夕張は未開発。終着駅は二股(南部)だった頃の大夕張。大夕張炭坑株式会社の二股停車場(旧南大夕張駅)。 後ろの大夕張炭坑選炭場の屋根に当時の社紋が見えます。 明治45年(大正元年) 二股停車場(旧南大夕張駅) 大夕張炭坑株式会社の社紋 &… 続きを読む
運んだ、石炭を人を ボンネットバス 昭和33年頃の三菱バス営業所。三菱鉱業バスが大夕張地区内を走り始めた(山内バス)当初、ボンネットバス2台での運行でした。 三菱バスの旧塗装色は、なぜか『都営バス』の塗装と同じだったそうです。 (注)下は白黒写真に色づけをしたもので、本物と同じかどうかはわかりません。まあ、そこまでこだわる人はいない… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 山内バス開通式 昭和31(1956年)年9月6日、炭鉱病院横の、車庫で大夕張地区内を走る山内バスの開通式が行われました。 当時三菱美唄鉄道バス。 昭和36年に、三菱鉱業バスと名称変更。 当時、大夕張地域を走るバスを「三菱バス(みつびしばす)」と呼んでいました。 秋晴れの午後の開通式。 カメラマンの足下の影が長く伸び… 続きを読む
1丁目1番地 『出発進行』『三菱大夕張炭鉱坑口地図』 『三菱大夕張炭鉱坑口地図』は、資料をもとに、地図上に打ち込みました。大夕張を訪ねて、坑口までいくことができたのは、道路から入っていける、ほんのわずかですが、本来は、試掘のあとなども含めて多数あるのだろうと思います。こうして地図の上に位置を置いてみると、礦業所の奥の山深く、地中深く、坑道が掘られていた… 続きを読む