明石町番外地 その1|高橋正朝 #33

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【明石町住宅地図 】

 

【 東高の丘から 



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 上記の4枚の イラスト/写真 は、飯田さんが編集したものを、私がコピペしました。

 オリジナル項目を見たい人は、HPの、写真/イラスト が添付されたヘッドラインの10項目に続くコラム、[ あなたの大夕張を気になる言葉で探してください ]の説明文のすぐ下の空欄に、[ 明石町住宅地図 ]と記入し、検索マークをタップすると、3項目のイラスト/写真が出てきます。[ 東高の丘から ]も同様です。

   

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 飯田さんのコメントによると、明石町番外地の場所が不明だったようです。

 明石町に住んでいた人ならわかっていたでしょうが、他の場所に住んでいた人だったら、知らなかったのは当然でしょうネ。

    

 住宅地図は、私が、明石町を去ってから4年後なので、かなり違っています。

 略図の5時の方角にある、7軒が集まっている所が、明石町番外地です。

 字が潰れて読めない漢字がありますが、玉? さんと書かれた家が、私が生まれて育った家で、一部2階建てで、札幌に転住するまで住んでいました。

 

 後ろの 小?? さんのことは知りません。

 私が、幼稚園児のころまで、ナガミネ さんという方が住んでいて、千年町だったかもしれないが、いずれにしても、そちらの方面に移っていきました。

 この ナガミネ さんは馬を飼っていて、その馬を使役して、荷物運搬をしていました。

 革ジャンを着ていて、カッコいいオジさんでした。

 

 ナガミネ さんが引っ越してから、ここの住人は数回代わっています。

   

 その隣の空欄の家は、私が、鹿島東小学校3年生ぐらいのとき、阿部 さん一家、ご両親と、寛子 さん ノリコ さん姉妹が引っ越してきました。

 阿部 さんと私の父親は、電気工事の仕事仲間でした。

 7年ぐらい前に、東京で、柿崎徹 さんと会って話しをしたとき、寛子 さんと柿崎徹 さんが、鹿島東小学校4〜6年生のとき、桜組で同級生だったということを聞きました。 全然知らなかったなぁ ••••••。 同窓会名簿を見ると、彼女は、かなり以前に亡くなっているようです。

   

 小?? さんの後ろの空欄の住人も時々代わった。 同級生になったことはないが、朝日山友子 さんが、ご両親と一緒に住んでいた時期があった。

    

 住宅地図には載っていないが、この右手にはもう1軒あり、柿崎徹 さん、1つ年上の正子 さん、4つぐらい年上の 実( マコト ) さんが、ご両親とともに、私が、小学校1年生のころに引っ越して来ました。

    

 もう一つの空欄には、星野 さん一家が住んでいた。 一人息子は、私より4歳ぐらい下で、その父親から、ゴムヒモをネジってブロペラを回す飛行機の工作を頼まれたことがあった。 羽のカーブは、竹ヒゴを、ロウソクの炎で、ジワジワと曲げていかなければならす、幼稚園児には無理だ。 それで、4年生だった私にお鉢が回ってきた。 

   

 この家に、星野 さん一家が引っ越してくるまで、サセ さん一家が住んでいた。

 どういう漢字を当てるのかは知らない。

 私の名前は、マサトモ( 正朝 ) であるが、私が生まれたとき、父親は、マサオミ( 正臣 ) と名付けたかったらしい。 ところが、この サセ さんが、 というのは、臣下 の  であるから、長男には名付けてはならない、ということで、私の名前は、正朝 になったらしい。 だから、4つ違いの弟が生まれたときは、父親は、即座に、正臣 と名付けた。

    

 この、サセ さんという方は、一橋大学の二期生だったらしく、大夕張という片田舎では、大変なインテリということで、父親は否応もなく、説き伏せられてしまったらしい。

    

 この家には、サッちゃん という、とてもキレイなオネェさんがいた。 私の母親が、番外地から千年町か大夕張に買い物に行くとき、私を サセ さんに預けていくのだが、私が大声で、「 サッちゃん、サッちゃん 」と駆け寄っていったことを覚えている。

   

 当時同居していた父親の弟、すなわち叔父だが、この叔父が、サセ さんに頼まれて、暗くなると、鹿島中学校に サッちゃん を迎えに行ったことがあったと、後年、東京で私に言っていた。

   

 中学校と聞いて、私は?と思ったが、そのときは特に聞き返しはしなかった。 しかし、引っかかるものがあったためか、記憶にとどまった。 あるとき、飯田さんが編集した大夕張年表を丹念に見ていたら、1950年( 昭和25年 )に、鹿島中校舎に、夕張北高鹿島分校併置、とでていた。 それで得心がいった。 だから、この当時、サッちゃん は、正確な歳のことは分らないまでも、高校生だったようである。

 

 サセ さんは、大夕張に住んでいた 土橋 さんと縁戚だったはずだ。  

 番外地の左手の2軒のうち、手前の家が、板倉 さん。 板倉 さんが、チィちゃん といった私より3つぐらい年上の娘さんと共に引っ越してきたのは、私が、小学校3年生のころだ。

   

 その1年ぐらい前、苗字は忘れてしまったが、番外地から開拓に向かう道路傍に1軒屋の居酒屋を立てて商売を始めたご夫婦が住んでいたが、その商売はうまくいかなかったようだった。

    

 その前の2年間ぐらいは、どのような人が住んでいたか、まったく記憶がない。 さらにそれ以前、そこに住んでいた人の苗字はまったく記憶していないが、キョウコちゃん、という、サッちゃん より、1つか2つぐらい年上のオネェさんがいたのを覚えている。 やがて、その一家は、千年町か大夕張かに引っ越して行った。

    

 私が4歳ぐらいのころ、番外地に当時住んでいた同じ歳くらいの男児と外で遊んでいたとき、千年町の方から汽車が来た。 そちらから来た汽車は、当時から、ホームの、明石町駅舎側に停車した。 朝の10時前後だったと思う。 季節は春だった。

    

 汽車を見るのも、当時の男児の楽しみのひとつだ。 番外地の、我が家の玄関先で、2人で停車している汽車を見ていた。 やがて機関車が汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き出した。

    

 動き出した客車を見ていたら、何と、キョウコちゃん が、デッキの踏板に立っていて、私達を見つけて手を振った。 「 キョウコちゃん、キョウコちゃん 」と、我々2人は叫びながら汽車に近づいたが、汽車は汽笛を鳴らし、シュッシュッシュッと蒸気を吐き出し、石炭の煙を吹きながら、轟音とともに通り過ぎていった。

    

 汽車が通り過ぎてから、2人で、レールに耳を当て、通り過ぎる汽車の音を聞いていたが、やがて、その音も聞こえなくなった。 子ども心に、何となく、寂しさと切なさを感じた。 キョウコちゃん は、もう、大夕張には戻ってこないだろうと、2人とも感じていた。

    

 デッキに立っていたキョウコちゃん は、このとき、ベージュのコートを着ていた。 後で思うに、キョウコちゃん は、就職でもして、大夕張を出るにあたって、かつて住んでいた明石町番外地の景色をまぶたに焼き付けていたのかもしれない。

    

 一緒に遊んでいた男児は、誰だったか、まったく記憶にない。 そのころは、日本全体の景気が上向きで、人々は、番外地に居住したり、出ていったり、結構、動きがあったように思う。

     

 板倉 さんが住んでいた場所の後ろの家に、小林順治 さん、和子 さんが、ご両親とともに、わたしが、小学校4年生のころに引っ越してきた。 ここの 和子 さんが、私に学年雑誌を二十冊ほどくれた人だ。

  

 番外地に住んでいた人たちのことを書き始めたら、段々長くなってきた。 続きは次回。

(2021年4月3日 記)


(筆者略歴)

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


  

1件のコメント

  • 明石町番外地の場所がわかりました。
    昭和43年の住宅地図にも掲載されていたのですね。
    さすがに住んでいた方でないとわからないですね。
    自分が住んでいた富士見町の両隣、向こう3軒ほどの範囲にしても、母親なら知っていたでしょうが、飯田少年には、未知の世界といってもいいです。親の眼のフィルターを通してしか情報が入ってこなかったような気がします。そして入ってきた情報さえ、今は忘れてしまっている・・・。
    7軒の家が掲載されていますが、実際には8軒の家があったそうです。
    高橋少年の目を通しての明石町番外地の7軒(8軒)の住人の物語り。
    よく覚えているなあ、と高橋さんの記憶力に、いつもながら驚くばかりです。

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