運んだ、石炭を人を 湖畔の列車 シューパロ湖畔を行く、『No.5』のプレートをつけた9600型蒸気機関車。 噴上げる白煙で後ろの木々も霞む。 まだ湖畔の道路は未舗装のまま。 昭和45年頃だろうか? 白黒写真に着色した画像 シューパロ湖畔をNo.5の引く混合列車が走る… 続きを読む
随想 こころにある故郷|長屋敏子 『林鉄』(りんてつ)の名前が、載っておりました。 今は亡き父母の言葉に出あったように、懐かしい言葉の響きがあります。 ちなみに母は、千年町で『喜多乃屋』の屋号で、そば屋を営んでおりました。 今も年に一度、何も無い家の跡地を訪ねます。 昭和25年頃から48年頃までの思い出が、心に刻まれており… 続きを読む
楽しかった日々 桜荘の女の子 昭和43年頃、千年町の桜荘前にて。 女の子乗っている自転車も当時流行りはじめた子供用の自転車。 男の子の『坊ちゃん刈り』に対する女の子の『わかめちゃんカット』。 当時の子どもたちはみんな同じ髪型でした。 ちなみにお母さんたちは、みんな『サザエさんパーマ』でしたね。 白黒写真に着色した画像 … 続きを読む
随想 やまのむこうは? | 丸山直記 私は、昭和23年6月10日に緑町で生まれました。 その後、鹿島小学校の裏側の住宅に移り、鹿島小学校、鹿島中学校、夕張東高校を経て、卒業するまで18年間住んでおり、私の精神形成は、純粋に大夕張でなされました。 子供の頃は、頭の中では世界は広いのですが、実感は全く無く、周りの山々の向こうには… 続きを読む
街の行事 昭和31年 第27回メーデー 栄町商店街 #3/7 昭和31年5月1日 第27回メーデー。 栄町商店街 白黒写真に着色した画像 タイムスリップ 【ヒロ みうら】(2006年5月1日) この行進の中に、在りし日の親父がもしかしたら参加しているんじゃないかと・・・と思わず、目を凝らして眺めてしまいました。 気持ちは瞬く間に、当時(自分は3歳)にタイ… 続きを読む
夕輝文敏 赤いポスト|夕輝文敏 小学校の入学祝に何が欲しいかと聞くと 「おじいちゃんが郵便局長をやっていた大夕張へ行ってみたい。ねえ、いいでしょう」 と泰樹は言い出した。 泰樹が物心ついた頃は、幸一の父、杉沢忠勝は、すでにこの世の人ではなかった。 だが、幸一はまるで忠勝が生きているかのように 「おまえの、北海道の… 続きを読む
思い出の街角 神社下から夕張岳 昭和31年5月、メーデーの日。土手に座っている人々が見える。 『昭和31年 第27回メーデー』の中の写真のうちの一枚かもしれない。 白黒写真に着色した画像 神社下からテニスコート越しに夕張岳をあおぎみる 『昭和31年 第27回メーデー』は次のページから https://ooyubari.co… 続きを読む
続・大夕張つれづれ ポンプ その3 | 高橋正朝 #49 鹿島東小学校の4年生だったか5年生だったか、ハッキリしないが、いずれにしても、冬のときです。 家に誰もいないとき、ある実験をしました。 真空をつくる実験です。 トリチェリーの真空なんて言葉は全く知らない。 それなのに真空をつくった、というのは、私のボンクラな頭でその方法を思… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島東小学校 卒業アルバム 『思い出』 昭和47年(1972年) 先生のページから 以下は、先生方の写真に着色した画像。昭和47年頃の職員室の雰囲気が伝わってきます。 山中先生と石野先生 林先生と八幡先生… 続きを読む
随想 鹿島小学校解体ときいて | 小林秀範 解体工事 標識 期間(平成11年11月1日~12月15日) 鹿島小学校が取り壊されるとの事、 本当に本当に・・・・・さびしいです。 今月ですか? 昨年、私は、親友2名とグランドでキャンプをしました、 今年も、と思っていたのですが、なかなか予定がつかずにいます。 親友は、田森睦夫、遠藤直樹… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島高(東高)と前岳 前岳を背にした鹿島高校(昭和40年1月に夕張東高校と校名変更) 白黒写真に着色した画像 前岳を背に 誇り!前岳の姿【藤田育雄】 このアングルは大自然に育った大夕張の住民の誇る前岳の姿です。 私も関東に来まして日本アルプスをくまなく回りましたが、今考えるに、こんな均整の取れた形、姿の山は数少ないの… 続きを読む
随想 私の大夕張 |菅井宏史 昭和33年の富士見町6丁目付近の地図に、赤い線で位置を示したもの。写真は、1997年6月撮影。木と、道の跡が残る。 思わず懐かしさがこみ上げ、『ふるさと大夕張』を見ている内に、色々と当時の思い出が蘇ってきました。 私は、昭和33年に大夕張の常盤町で生まれ、4歳か5歳の時に(昭和37年か3… 続きを読む
思い出の街角 下夕張(旭ヶ丘)開拓地 昭和20年。 家族にとって、写真屋を呼んで何か特別な日だったのだろうか。 男達は直立不動で、家族は全員正装し、ゴザに正座している。 後ろは崖のようになっていて環境の厳しさが感じられる。 白黒写真に着色した画像… 続きを読む
思い出の記 親父のものがたり |Kawauchi Masami よくわかりませんが、親父は、いいとこの坊ちゃん、らしいのです。 家は軍馬を育てる大地主で、お祖父様は、沼崎部隊々長でした。大きい家で使用人も沢山居たらしく、お祖父様の名前は、沼崎一男といいます。 結婚していた沼崎一男は、西田さんという 妾を作ります。 なんの縁か、母親は若い時に一人で行ってま… 続きを読む
思い出の街角 初音沢 木材工場 住宅地が広がっていた礦業所南側。礦業所から奥の北側。 白黒写真に着色した画像 初音沢には木材チップ工場など,木材関係の工場があった。そのうちの一つ。 遠くに礦業所方面が見えているが、やや高台になったそのあたりは初音台といわれていた。 写真奥の建物は、手前、機関庫、奥にコークス場・発電所と見える。 写… 続きを読む
随想 初音沢地区 |目黒則男 我々住民は初音沢と言っていましたが、鹿島地区の人々は官行と言っていたようです。 チップ工場、ボタ山、その麓にあった炭鉱用資材を製造する工場、そのあたりを初音沢と呼んでいました。 私の父が、炭鉱用の資材を製造する会社に勤務していた関係で、現地の社宅に住んでいました。 通学には大変苦労した記… 続きを読む
運んだ、石炭を人を シューパロ湖畔を行くSL3重連 昭和S46年8月 「鉄道友の会北海道支部」、「北大鉄道研究会」の合同撮影会に合わせて、9600形SLの3重連がおこなわれた。 編成は、「No.3」「No.7」「No.5」+ セキ21両 + 客車ナハフ1 で走ったそうだ。 写真では、3機のSLが噴上げる黒煙がその迫力を伝える。 下のリンクから、走行の… 続きを読む
昭和 1978年(昭和53年) 1月 ポンプ車1台、消防南部出張所に配置。 3月 19日,鹿島東小閉校式。 4月 8日,鹿島小・鹿島東小統合式。鹿島東小学校閉校。それに伴い鹿島東小学校奥鹿島分校が鹿島小学校奥鹿島分校と改名。 鹿島小体育館解体開始。 5月 大相撲5月場所をもって,朝登引退。 7月 大夕張ダムかさ上げ可能性調査開始… 続きを読む
思い出の街角 炭焼き小屋の前で 昭和20年、下夕張(旭ヶ丘)開拓地。 筵を敷き動物の毛皮の上に座り、くわえ煙草。 赤ん坊を抱っこして、蓄音機を並べた写真撮影。撮影は、当時大夕張でただひとつの写真屋だった、加川さん。 写真屋さんがくるというので、珍しかった蓄音機をわざわざ持ち出して一緒に撮ってもらったという。 悠然と… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和28年 鹿島小学校 学級写真 鹿島小学校中庭で写した写真。 昭和17年4月~昭和18年3月生まれの方々と思われる。 この学級が、小学校5年生で、このままの編成で翌昭和29年に卒業を迎えたとすると、担任高橋俊男先生となる。 中央は、石垣貞司校長。 白黒写真に着色した画像… 続きを読む