月: 2021年7月

ポンプ その2 | 高橋正朝 #48 続・大夕張つれづれ

ポンプ その2 | 高橋正朝 #48

 私が鹿島中学校の2年生か3年生のときである。  学校から帰った夕方の4時ごろで、家には私1人だけで、妹弟は遊びに出ていていなかった。        テレビを見ようと思い、スイッチを入れた。  明石町番外地は、テレビ放送の受信状況が悪く、そのときは特に HBC と STV の画面の映りがよくなかった…
営林署のアルバイト | 大阪の小林 思い出ばなし

営林署のアルバイト | 大阪の小林

昭和50年頃 三菱南大夕張鉱業所とともに、南部貯木場が大きく広がる    小生は、昭和40年7月中旬から、8月中旬までの1ヶ月間、南部にありました大夕張営林署の南部貯木場で、大学の友人2人と共にアルバイトをしました。  当時の貯木場の写真や、写真をお送りした経緯はこちらのホームページにもアップロード…
南部・鹿島、そして浄水場 |飯田雅人 訪問記

南部・鹿島、そして浄水場 |飯田雅人

取壊し間近の浄水場(1999年)  今日、シューパロ塾主催の『南部・鹿島地区のフィールドワーク』に参加してきました。   参加者には、多くの故郷の歴史を伝える貴重な資料が配布され、それだけでも私にとっては参加した価値が十分あるものでした。    午前10時から午後1時頃まで、午前中は,遠幌から南大夕…
故郷を連想するうた | 野口美代子 随想

故郷を連想するうた | 野口美代子

 近くに住む人は気軽に、遠くに住む人も距離も時間もなんのそので大夕張へ行く。 25年会の便りを読んで私も思いは大夕張へ。  大夕張を思い出す歌のひとつに「懐かしのバァージニア」というのがあります。  ちょつと昔、流行ったので、お若い方達は、ご存じないかと思いますが。   バァージニアを大夕張に置き換…
大夕張への想い | 目黒則男 随想

大夕張への想い | 目黒則男

 昨年6月、父の病気のお見舞いのため、静岡から札幌の実家を訪れました。  そのおりに母から、 「鹿島小学校が廃校になるみたいだよ。」 と聞かされた。   続けて、 「大きなダムができて大夕張が沈むみたいだよ。」 の言葉に一瞬なんのことか、すぐには理解できませんでした。  私が18歳の頃、大夕張から札…
旭沢橋梁を行く『NO.5』 運んだ、石炭を人を

旭沢橋梁を行く『NO.5』

昭和47年 白黒写真に着色した画像   沢の下より橋の上の列車を見上げる 旭沢橋梁を進行中の混合列車【奥山道紀】  プレートガーダーをトラスで補強した「特異」な橋梁形式の旭沢橋梁を渡る№5牽引の上り列車です。  遠幌~南大夕張間の「遠幌加別川橋梁」も同形式です。…
昭和50年代大夕張と大聖寺解体法要|KAZ 随想

昭和50年代大夕張と大聖寺解体法要|KAZ

 札幌市在住の27歳会社員です。   私も一時大夕張に住んでいたことがあり、懐かしさのあまりすべてのページを印刷し、ファイリングして飾ってあります。    諸々の事情で当時住んでいた札幌の団地から、親元を離れ祖父母の住んでいた大夕張に、私一人預けられ、そこで幼年時代を過ごしました。昭和51年頃だと思…
海岸列車の女(ひと)|夕輝文敏 夕輝文敏

海岸列車の女(ひと)|夕輝文敏

 あの頃の僕は、心の内に先の見えないトンネルを抱えていた。暗闇の中で出口を求めていたが、まだ光を見出すことはできなかった。そんなときに、僕はあの女に出会った。  札幌発小樽行きの海岸列車に、あの女は、ほしみ駅から乗車した。夏休みに入り学生たちの姿も消え空席が目立つ中、あの女は優先席に静かに座った。ま…
吉田初三郎 夕張鳥瞰図(1950年) 地図

吉田初三郎 夕張鳥瞰図(1950年)

   大正から昭和にかけて鳥瞰図3000点以上を描いたという吉田初三郎は、夕張の鳥瞰図も描いている。  吉田初三郎が描いた夕張の鳥瞰図は、1950年版と、1962年版の二種類あるという。  かつては夕張市石炭の歴史村『炭砿生活館』の展示でも50年版と、62年版の両方が、展示されていたことがあったらし…
ポンプ その1 | 高橋正朝 #47 続・大夕張つれづれ

ポンプ その1 | 高橋正朝 #47

 例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。    昭和43年鹿島東小学校周辺住宅地図    前回、汽車通学の項で、清水沢駅で、夕工高に行くのに、夕鉄に乗り換え、と書きましたが、奥山道紀さんから、夕鉄でなく、国鉄夕張線だという指摘がありました。 そのとおりです。 間違いをお詫びいたします。    …
夕張市の様子 |鹿島小学校郷土室 地図

夕張市の様子 |鹿島小学校郷土室

 鹿島小学校郷土室にあった『夕張市の様子』。壁面に掲示されていた鹿島小学校教職員による自主教材。小学校中学年で学ぶ地域教材の一つとして活用されたものと思われる。  作成年度は、記されていなかったが、昭和40年代に作成されて(すでにシューパロ湖駅がない)、その後、閉校、閉山に合わせて赤をいれながら使わ…
便所場球場 |岡本雅志 随想

便所場球場 |岡本雅志

   昭和43年8月9日。  私の誕生日に大夕張駅前のメインストリートを出て東京へ引っ越しました。   私は小学校6年の夏休みまでしか大夕張にはいませんでしたが、私の兄、姉は皆、鹿島小学校→鹿島中学校を卒業しています。  当ホームページに寄稿されている小林光志氏の紹介で、大夕張のホームページの存…
送電塔のあたり 思い出の街角

送電塔のあたり

冬 快晴 。 場所不明。 送電塔のあたりを写したのだろう。送電塔の記憶は、発電所から礦業所の裏山に伸びていく送電線と、春日町の対岸にそってあったような気がする。 やはり春日町のあたりだろうか。 白黒写真に着色した写真…
昭和27年 炭砿病院職員野球部 楽しかった日々

昭和27年 炭砿病院職員野球部

 昭和27年(1952年)6月11日、北炭職員野球部と試合後に、夕張炭鉱病院前で撮影した写真らしい。  下の書き込み、父の顔を見つけて書いたのだけれど、今回、着色をしていてなんと母が写っていたことに気がついた。鈍感にも程があります・・・。  炭砿病院の事務室で働いていた母が、正面玄関をはさんで、向か…
懐かしき「大夕張」| 結城雅司 随想

懐かしき「大夕張」| 結城雅司

 神奈川県川崎市に在住しています。 昭和34年1月、大夕張千年町にて生を受け、3歳まで居住しておりました。   その後、夕張市旭町、札幌市、東京都をへて、現在に至っております。  たまたま、道内のHPを見ていましたら、飯田様の「大夕張」HPを見つけ、拝見したところです。  数々の写真・メール等を拝見…