逃 亡

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大夕張が、まだ南部だったころの大夕張炭坑の時代。

 

明治末期、日露戦争後、日本の経済は大不況に陥り、炭鉱の経営も苦しくなった。

炭坑夫 の中にも、重労働から逃れて他の職を求めたり、少しでも景気のいいヤマにいこうとするものがいた。

他のヤマからの引き抜きもあったという。

飯場制度の下にあった 炭坑夫 たちには、きびしい監視の目が光っていた・・・。

  

堀田さんの話にもでてくる逃亡の話は、戦前のタコ部屋労働者の話だが、明治のこの時代、決死の思いで逃げ出す覚悟は同じだっただろう。

 

 

 

 


不景気のしわよせは当然のように労働者がかぶらねばならなかった。


一日十時間から、十二時間働き、賃金は坑内(男)72銭から1円で、平均1ヶ月十八円から二十円の手取りしかなかった。

米一俵八円、みそ、しょうゆを買えば、飲んで食ってチョンである。

明治43年6月に清水沢まで鉄道はしかれていたが、清水沢貯炭場までの石炭積み出しをするだけで、人は乗せなかった。


炭坑夫の引き抜きや、逃亡を防ぐための会社の政策であった。

 


それでも景気のいいところがあれば、風呂敷包み一つ担いで逃げるものがいたので、会社や飯場頭(親分)の警戒は日増しに厳しくなっていった。

つかまれば最後、ふくろだたきにされて、命があればいいほうで死ぬかもしれないのだ。

逃げるものは清水沢めざしてひたむきに走る。

雨もよいの夜陰をねらって、飯場をひそかに抜け出す。

闇夜は線路や枕木をスッポリ飲み込んでしまう。

 


明け方、もぬけの殻の布団を見て仲間が逃げたのがわかり、目と目を合わせて捕まらないように祈る。

けれども夕方、飯場に行ってハッとする。

手足をすりむき、身体のあちらこちらにブス黒く血がにじんで、顔かたちはかわって誰やらわからない。

紫色にはれあがり、全身をときおりピクピクけいれんさせ、生きようとしている仲間だ。

すっ裸の肌に手をふれてもぬくもりがなくなっている。

 


つかまってヤキを入れられたのだ。

 

大夕張炭坑に働く者、750名(坑内500、坑外250)で、女は70人前後(坑内外とも)。

女抗夫は40人ぐらいで、だんだん減って北部(大夕張)に移ってから女坑夫はいなくなった。

  
かまどもちは長屋に入ったが、独り者は飯場(納屋制度)が面倒をみた。

 

(大夕張炭労働組合『二十年史』(S41年)から)


 

 

 

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