道玄坂の思い出 その1| 高橋正朝 #123

1974

 

 前回投稿した、『続・大夕張つれづれ # 122 〘 ハチ公前広場の噴水 〙』に、飯田さんが、イラストを添付して掲載してくれました。 

 

 これは、私にとっては懐かしい風景です。

 一部を誇張や省略したイラストで、私が海外に行く前の2年間働いていたビルが描かれている。 

   

 このイラストの元になった写真は、いつのころかわからないが、イラストの立ち位置は、ハチ公前広場の交差点である。

 
 イラストの下部の右側に見える道路が道玄坂である。

 やはり、下部の左側に見える道路は神宮通りだ。

 現在の道玄坂のハチ公前広場の道路は、ハロウィン前後は、すごく混雑するらしいが •••••。

 

     

 イラストの中央からやや右側にあるビルの、6階か7階だったか忘れたが、催眠療法だったか催眠教室だったかの名前があった。

 正規なクリニックだったかどうかはは知らない。

 道路の植栽が少なかった当時、ハチ公前広場からはよく見えた。

    

 大夕張つれづれ # 15 〘 夢物語 〙に登場する、内田幸夫さんも、催眠術に興味を持っていたので、当時、代々木上原と東北沢の中間ぐらいに住んでいた彼は、渋谷にはよくきていたらしく、この催眠療法だか催眠教室だったかのことは知っていた。

 

    

 中間ぐらいと書いたが、直線的な中間ではなく、三角形の2点を、それぞれ代々木上原、東北沢とすると、もう1点のところに住んでいた、といった感じだった。

 

 わりと近くに、東大宇宙航空研究所があり、少し歩くと近代文学館があった。

 

 大夕張出身者の彼と私は、お互いに知らずに、指呼の距離に2年間ぐらい住んでいたのは、#15 に書いたとおりである。

    

  

 このイラストにあるビルの1階には、アメリカのフロリダ州にある都市の名前のコーヒーチェーンの喫茶店があった。

    

 その角のビルから、道玄坂を上ると、ビルの屋上に、白地に青帯がある建物が見える。 その建物に、ビル管理の仕事で、私が常駐していた。 

  

 この白いのはネオンサインの広告塔で、当時は青帯はなく、白地に、インテリア井門のロゴが黒文字でデザインされていた。 

 

 ネオンは点滅しないが、シンプルなデザインと相俟って、目立つ広告塔だった。

 道玄坂を挟んだ反対側に、ワールドファション井門があり、やはり、同様な広告塔だった。

    

 また余計な話しになるが、道玄坂を上りきる手前に、〘 道頓堀劇場 〙というストリップ劇場があった。

 入ったことはない。今でもあるかどうかは知らない。しかし、念のため、ネットでチェックしたら、まだ営業しているようだ。

 ちょっと驚いたのは、ウイキペディアに、〘 道頓堀劇場 〙という項目があり、それを読んだら、札幌ススキノにもあり、こちらは休業したり再開したり、現在はまた休業しているようだ。

 ただし、建物は、〘 札幌道劇ビル 〙として残存し、風俗店などが入居しているらしい。

 ウイキペディアの記事を反芻してみると、ウッスラと、ススキノに、ストリップ劇場があったのを思い出した。 入ったことはナイ。 ほんとにホント ••••••。

 しかし、道玄坂にあったストリップ劇場が、札幌ススキノのストリップ劇場と、かつて同系列だったとは ••••••。

    

 イラストにある建物の店の名称は、当時はインテリア井門。 所有者は、井門不動産。 札幌にもいくつか所有ビルがある。 そのうちの1つは、札幌地下街とつながっている。

    

 インテリア井門には、当時、石✕軍団と称されたスターが時たま来店していた。

 展示家具の半分は、イタリアからの高級感のあるクラシック調のもので、他はスエーデン産の家具、3割ぐらいが日本の家具で、旭川産が多かった。

 石✕軍団のボスは、昭和の大スターである。

    

 イラストでは、わりと大き目なビルに見えるが、これは、そのビルのすぐ隣、ハチ公寄りの東宝の映画館とくっついて見えるためだ。

 それぞれのビルは、現在もある。

     

 当時、この井門ビルには、クロスバー式の電話交換機があり、2人の美人交換手がいた。

    

 

 さて、時代と場所が変わって、イラクでの話。

    

 私が働いていたプロジェクトは、イラク国内の13カ所ある総合病院の維持メンテナンスだったが、私は、ほとんどセンターにいて、イラク厚生省に提出する書類やスペアパーツの手配の担当をしていた。

    

 各病院には、ビル設備や医療機器担当の日本人が複数人、助手として、フィリピン人がそれぞれ10人ほどいた。

    

 それ以外、メーカーサイドから派遣されていた専門職の人もいた。

 また、メーカーに所属してないが、一匹狼的な専門職の人もいた。

    

 そのなかに、昇降機メーカーから派遣されていた人がいた。 彼は性格が穏やかでハンサムである。 珍しい名前で、苗字を T としておこう。

    

 ある日、2ヶ月ぶりぐらいに彼、T さんがセンターに戻ってきた。

 各々は、それぞれのスケジュールにしたがい、6週間ぐらいかけて、イラクの13カ所をルーティンするのだ。

    

 ある夜、娯楽室で、T さんが独身時代、道玄坂にあるインテリア井門で電話交換手をしていた女性と交際していた話をし始めた。

 このビルには、エレベーターとエスカレーターがあったが、T さんが勤務するメーカーではなかった。

 

 私が、海外で仕事をする直前まで、インテリア井門が入居していたビルにいたことを話したら、え〜っと驚いていた。

   

 たしかに、その電話交換手の女性はいた。

   

 T さんが、その当時から働いていたということなので、私が、その昇降機メーカーの2つの出来ごとを持ち出した。

    

 1つは、新宿の超高層ビルで、エレベーターが故障し、客が2時間ぐらいエレベーターの中に閉じ込められたこと。

 これは、各新聞社の社会面に、メーカー名も含めて小さな記事になって掲載された。

 

    

 もう1つの事故は以下のとおりだ。

    

 インテリア井門の斜め前、道玄坂に沿ってワールドファッション井門があった。 その近くにあった、第3者の持ちビルの屋上から粉末消火器が落下し、就職が決まっていた通行人の大学生の頭に当たり、頭蓋骨陥没となり、意識不明となった。

    

 何故、粉末消火器が屋上から落下したかというと、エレベーターのメンテナンスをするために、作業員が、ペントハウス機械室に入り、ドアを開けっ放しにするため、開けたドアに、ストッパーとして粉末消火器を立てかけた。

    

 消化器をそんなふうに使ってはいけないのだが、多分、いつもそうしていたのだろう。

    

 普段なら問題なかっただろうが、突然強風が吹き、ドアを押し、それで、粉末消火器が階段踊り場から落下してしまった。

 

 落下した場所に、違法な小屋、つまり違法建築物が造られており、階段踊り場から落下した粉末消火器は、違法建築物の小屋に落ち、その屋根から転げ落ちてビルから落下してしまい、通行人の学生の頭に当たったわけだ。

   

 これは、新聞に載らなかった事故であった。

    

『 タカハシさん、いや〜なこと覚えているネ 』

 

と言われた。

 

(2022年12月17日 記)


(筆者略歴)

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。


 

   

1件のコメント

  • カットに前回のイラストと渋谷のハチ公広場からの目線の素材写真を添付しました。
    渋谷は行ったことは何度かあるけど、その景色はほとんどその記憶に留めない。
    人の多いことだけが印象に残る。
    そこで暮らす都会ではいろいろな出来事がおこりますね。

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