私は昭和29年(1954年)に鹿島小学校に入学しました。 しかしながら 昭和30年末に学区の変更があって、小学校2年の終わりに強制転校となり、鹿島東小を卒業しました。 通学区域変更の内容は、泉町の川(宝の沢)を境に、千年町駅側は東小・大夕張駅側は鹿島小の区分けでした。 私なんぞは、 …
父親が他界して8年になりますが、若いころは写真撮影の趣味もあって、暗所でよく現像している様子が記憶に残っています。 投稿写真は、昭和33年8月7日の七夕祭りの様子です。 代々木町8丁目に住んでいました。 2歳の私が写っております。 同じ長屋に山本さんという方がいて、よく私のこと…
緑ケ丘のブロック2棟8軒で、心に残る七夕があります。 当時小学校6年生の兄が企画し、音頭を取って、皆が楽しみました。 兄達が大きめの笹を用意し、皆に願い事の短冊を書くように言いました。 そして、それは2階の星山さんへの階段のところに、きれいに飾られました。 リンゴ箱のステージで、小さ…
当時、チャンバラ映画ほどではなかったが、ギャング映画も結構製作されていた。 代表的なものとしては、片岡千恵蔵の多羅尾伴内シリーズがある。 私は、大夕張劇場で1本しかみていないが、私の年代の少年たちには人気があった。 少女たちに人気があったかどうかは知らない。 『あるときは片目の運…
昭和34年の三菱大夕張礦業所選定歌、B面。 作曲と編曲は「大夕張の歌」と同じ桑山真弓、山口俊郎。 作詞は地元の佐藤貞雄氏だろう。 それだけに叙情的に炭鉱町の四季を歌った「大夕張の歌」に対して、炭鉱で働く男の誇りと心情が歌われる。 歌う北見和夫は、A面の「大夕張の歌」の当時すでに人…
開墾伐採のあとか、このあたりの湖底一帯は、多くの木の切り株が散在していた。 湖畔亭の下、大夕張ダム湖の湖底は、かつて農場(第2農場)といわれた。対岸が桜ヶ丘方面。 戦後炭鉱の人口増により大夕張にも町外れの畑地にも町ができた。 第一農場にも炭鉱住宅が建設されて、明石町となった。それによ…
「大夕張の歌」と「炭礦(ヤマ)に希望の花も咲く」がA面、B面のSP版のレコードから採録。 昭和34年11月に三菱礦業所選定歌としてキングレコードから限定発売された。 通称『大夕張音頭』『大夕張小唄』ともいわれ、炭礦全盛時代は、とてもにぎやかに唄われていた。 鹿島小学校の鼓笛隊でも、レパートリーの…
鹿島眺望公園に立つ、馬頭観音。 眺望公園の中で、唯一戦前の大夕張を伝える碑である。 住民が立ち退く前、千年町の住宅地の裏手にあった。 手塚治虫の『鉄腕アトム』で「10万馬力だ♪鉄腕アトーム♪」というフレーズ。 「『一馬力』ってどれだけの力?」と親に聞いたことがあった。 「馬一頭が…
昭和43年鹿島小学校を卒業して中学校に入った、その年の5月頃だろう。 後ろには、富士見町の独身寮『啓心寮』 土手下のテニスコートや空き地は、『遊び場』だった。 富士見町3丁目33番、それまで木造の住宅から引っ越し、大夕張で最後に住んだブロック住宅。 家の中は、ペチカがありトイレは和式水…
実は、この題名の映画は、本当にあったものかどうか、疑惑の対象である。 ネットで検索してみると、〘 暗黒街の伊達男 〙という題名の映画はでてこない。 〘 暗黒街 〙〘 暗黒街の対決 〙〘 暗黒街の帝王 〙〘 暗黒街大通り 〙 その他がでてくるが、首題の、〘 暗黒街の伊達男 〙は、ありそ…
東京で仲良くなった友人の結婚式で、お父様と話をさせていただくとき、 「お父さん、工藤さんも夕張生まれなんだって」 と紹介され 私 「夕張でもさらに奥の大夕張なんです」 友人父 「僕も大夕張ですよ」 私 「でも大夕張でも端っこの明石町なんですよ」 友人父 「え?私も明石町ですよ!」 …
『大夕張炭山』の絵葉書(小紙商店発行) 明治大正期の大夕張炭山。 『事務所前より選炭機の遠望』がうつっている。 手前の建物が、大夕張炭山事務所で、その奥が選炭場ということだろう。 手前に線路の一部が見え、蒸気機関車の上げる噴煙の一部が画面右端に映り込んでいる。 場所は、旧南大夕張駅(二…
平成9年(1997年)における大夕張にあった碑などの他橋梁など産業遺産を含めて位置を示した図。 鹿島眺望公園に今は10の碑が残る。 もともとの場所に一番近い場所にあるものは、「夕張東高等学校記念塔」ということになる。東高跡地なのだから当たり前だが・・・。 鹿島この位置図に載ったもののうち…
『岳麓の里(大夕張10景)』におやじの(淑雄)の絵が載っています。 父は現在83才で札幌市北区屯田にいます。 足が弱って来て外に出る回数もめっきり減りましたが、まだ盛んに絵を描いています。 文章を書いている佐藤貞雄さんも、私と(昭和25年生まれ)同級の道子ちゃんのお父さんです。 伊藤清治さんは父に聞…
宝町にあった鹿島図書館。 写真の右下には、当時通勤や仕事で使われていた二輪のオートバイが停まっている。 この建物は、昭和35年に新築以降の建物で、自分が利用したのもこの建物。 本通りから宝町の図書館に向かって入って行くと住宅と図書館の間は、かつての住宅の跡地なのか、写真のように空き地…
最初にこのページをどこのカテゴリーに入れたらよいのか、迷った。 当時、運転手だった方がお一人亡くなられているから、「思い出の街角」にというのもちょっとどうかなと・・・・。 そこで、『備忘録-あらかると』というエピソード的なところへ収めることにします。 下の資料は、「白銀橋が永久橋に」とい…
続・大夕張つれづれ # 101 〘 吸血髑髏船 〙の飯田雅人さんのコメントに対し、 facebook 版に、石崎佳美さんが、 『確かに、幼い頃、怖いシーンの時、目をつぶっていましたね』 と、応答していましたが、当時の低学年の児童は、そういう人がわりと多かった。 ちょっと映画の内容…
昭和15年(1940年)頃発行された絵葉書から。 「和気満山」 あまり聞き慣れない言葉で、『霊気満山』という言葉が昔からあるが、そのもじりだろうか? 和やかな雰囲気が炭鉱全体に及ぶというような意味で付けられただろうことはわかる。 タイトルの下に、「出勤風景」と「楽しき夕べの団欒」の二枚の写真…
夏休みには、父が女子バレー部の顧問をしていた関係上、家にバレー部の方が合宿に来ていたということも憶えています。 あんな狭い家に7~8人くらい来ていたんでしょうか? 夏の思い出としては、教え子の方から「夕張メロン」をいただいていたことでしょうか? ほぼ毎日に近い…
闘犬は、大夕張でも場所を変えて巡業のような形で何ヶ所かで行なわれていたのか、あるいは、毎年、その年によって違う場所で行なわれたのかわからない。 ある時期(昭和30年代中頃)流行り、その後すたれたそうである。 この闘犬が行なわれていた写真の場所、話によると、春日町であれば、弥生町から春日町に…