Masa

北海道夕張市鹿島1番地。昭和31年3月、大夕張生まれ。 昭和31年から、昭和46年まで、炭礦で繁栄する、自然豊かな街で幼少年期を過ごしました。中学校卒業、炭砿病院の薬剤師だった父が亡くなり、大夕張を離れました。昭和48年三菱大夕張炭礦が閉山になる2年前のことでした。 1996年に「ふるさと大夕張」を開設、運営。2019年12月より再起動しました。
南大夕張|三菱石炭鉱業株式会社 南大夕張砿業所(3) 本棚

南大夕張|三菱石炭鉱業株式会社 南大夕張砿業所(3)

三菱石炭鉱業株式会社南大夕張砿業所が、1985年(昭和60年)5月17日に死者62人を出すガス爆発事故を起こしてから1992年(平成2年)に閉山する直前、昭和から平成に移りゆく頃に発行した企業紹介のパンフレットから。   【沿革】  明治39年10月(1906) 京都合資会社が原南部小学校付近に福山…
南大夕張   |三菱石炭鉱業株式会社 南大夕張砿業所 (2) 本棚

南大夕張   |三菱石炭鉱業株式会社 南大夕張砿業所 (2)

 三菱石炭鉱業株式会社南大夕張砿業所が、南大夕張炭鉱閉山の直前の1989年頃に発行した企業紹介のパンフレットの裏表紙。  表紙の写真に続いて、南部小学校、南部の市街地が写る。       (裏表紙)      表紙と裏表紙に続く、南部を上空から撮影した全景写真のもとになっていると思われる写真は、以下…
大夕張 鳥のさえずり -カッコウ- 音の風景

大夕張 鳥のさえずり -カッコウ-

以下百科事典風に書くと、 全長35cmほど、日本には5月頃に南方から夏鳥として飛来する。 オスの鳴き声がそのまま名前の由来となっており、メスは「ピッ、ピッ、ピッ」と鳴く。    体は細身で頭から背、翼の上面などは灰色、腹は白色で細かい横縞があり、雌には灰色部分が赤茶色をしたタイプもいる。  夏を告げ…
夕張シューパロダム本体着工へ(平成17年度) あらかると

夕張シューパロダム本体着工へ(平成17年度)

 以下の資料、今手元にないので詳細は不明だが、記憶では、平成17年(2005年)頃、江別の石狩川夕張川周辺にあるたまたま立ち寄った施設で入手した。  北海道開発局の河川事業のPRの広報誌で、一般向けに掲載されていた『夕張シューパロダム本体着工へ』のお知らせ。    …
ゴミ箱と焼却炉|高橋正朝 #206 続・大夕張つれづれ

ゴミ箱と焼却炉|高橋正朝 #206

  昭和46年の教室配置図        昭和46年の教室配置図で、11時の方角に、スミレ学級がある。  その少し左下の外部に、〘 焼物 〙と表記されたものがある。 これは焼却炉ではなかろうか?       クラスの座席の後ろ壁のスミの床には、ゴミ箱が置かれていた。 ゴミ箱は木製だった。 …
ふたり 楽しかった日々

ふたり

 炭鉱住宅の軒先。  虫採り網を立てかけ、虫かごをもたされて、「今はそんな気分じゃないよ」と、ご機嫌斜めの気分の中で、父がシャッターを切ったような、そんな記憶がおぼろげながら浮かぶ。       小さい頃よく女の子と遊んだ。  近所の公園や空き地に咲いた『たんぽぽの海』での「花摘み」  その後の、黄…
大夕張ダム(二股ダム)工事着工 昭和30年頃 あらかると

大夕張ダム(二股ダム)工事着工 昭和30年頃

 大夕張ダム工事に伴って、森林鉄道移設工事(三弦橋架設工事を含む)や、三菱大夕張鉄道の付け替え工事、水没する炭住の移転、各町を結ぶ橋の移設などが、同時に進んだ。     写真にうつる壁のような建築物は、はダム本体のややシューパロ川上流に作られた仮締切。       白黒写真に着色した画像      …
湖畔の石仏 |Toshinori 随想

湖畔の石仏 |Toshinori

  かつて、大夕張ダム管理事務所から旧明石町駅までの湖畔の道、中間位に石仏が有ります。 大夕張の方なら、ご存知と思います。   湖畔亭を過ぎ、明石町へ近づいていくと崖の上で左への急カーブがあり、その手前の右手に立っていました。 小さいお堂があり、その中に小さなお地蔵様が赤い帽子とちゃんちゃんこを身に…
薪を焼べる、石炭を焼べる、火を焼べる | 高橋正朝 #205 続・大夕張つれづれ

薪を焼べる、石炭を焼べる、火を焼べる | 高橋正朝 #205

     4日前、 ネットに配信されたいくつかの記事を読んでいたが、そのなかに、クイズスタイルで、漢字の読み方の質問があった。       以前に書いたことだが、この手の質問に対する私の正解率は、3割ぐらいの体たらくだ。       今回は5割ぐらいだったが ••••••。       質問のなかに…
大夕張礦業所 事務所 昭和40年頃 炭鉱とともに

大夕張礦業所 事務所 昭和40年頃

  『昭和40年 大夕張礦業所 正門前』と同時期の撮影と思われる。 同じく色調を修正し、編集済。   下の元画像の色を修正編集した画像      大夕張礦業所事務所 元の写真       以下は、昭和36年発行『夕張市の企業と名士録』に掲載の大夕張礦業所。   https://ooyubari.co…
グスベリとカリンズ |久々湊眞一 思い出ばなし

グスベリとカリンズ |久々湊眞一

グズベリーとカリンズ    子供の頃はグスベリと言っていたが、正式名称はグズベリーというのだそうだ。  大夕張の泉町のうちの庭に木があって、大量に採ることが出来た。  実は、薄い緑色をしていて、縞模様がついている。  口に入れると、ぺちゃっとつぶれ甘酸っぱい香りがした。  うちでは食べきれない分を、…
台湾の大臣 | 内川准一 思い出ばなし

台湾の大臣 | 内川准一

  おぼろげな記憶です。  昔。親父の同僚に台湾?から復員してきた人がいた。  (時々家に来ていたけど名前は思い出せない。)  で、この人の口癖、   「おれの兄弟は台湾で大臣してる。」  は、いつも回りの笑いものになった。  しかし、昭和30年代始め頃のある日、台湾のある大臣が来日し、ついでに、な…
昭和40年 大夕張礦業所 正門前 思い出の街角

昭和40年 大夕張礦業所 正門前

 この写真を含めて、大夕張の住民立ち退きが話題になり「ふるさと大夕張」を始めたころに、夕張市から大夕張の写真を提供していただいた、そのうちの一枚で、これまで大夕張の町の写真などを目にしたことがなかった自分にとって、本当にふるさとにもどったような気がしたものだった。     ここは大人たちの仕事場とい…
昼食時に放送で流れた音楽や先生へのインタビュー|高橋正朝 #204 続・大夕張つれづれ

昼食時に放送で流れた音楽や先生へのインタビュー|高橋正朝 #204

   鹿島中学校に放送室があったのは覚えている。 職員室の並びに位置していた。     団塊の世代が鹿島中学校に在席していた当時の放送室と昭和46年の教室配置図にある放送室の位置は、私の記憶だと、同じである。    この配置図では、左の室は校長室となっているが、我々の在籍時には、校長室は、反対側、す…
錦町2丁目 スモモの木 思い出の街角

錦町2丁目 スモモの木

    昭和28年(1953年)頃 錦町2丁目2番にあった家の庭のスモモの木。   4月に鹿島東小学校への入学を控えた新1年生の男の子と、母の記念写真。     このスモモの木の下を錦町から泉町、大夕張方面に行く人が毎朝夕、通って歩いたという。     写真の左手、上り坂になり、1丁目3番と2丁目の…
富士見町6丁目 | 木村滋 思い出ばなし

富士見町6丁目 | 木村滋

はじめまして。 飯田さんの住んでおられたあたりに、私も住んでいたような気がします。 6丁目7X番地???、私の記憶と情景が一致します。  もっとも、昭和23年から33年ころまでかな・・・。 その後、4丁目のブロックアパートに引っ越しました。  私のいたころの大夕張は全盛期で、中学1年の時は1学級50…
ござっぺ釣り |曽根幸夫 思い出ばなし

ござっぺ釣り |曽根幸夫

      七夕が近くなると、毎年のござっぺ(カジカ)釣りを思い出します。    ござっぺは、7月ころ子持ちになりますので、ちょうど良い時期なのです。         兄とござっぺ(カジカ)釣りに出かけます。  大体30分くらいでバケツ一杯釣れるのです。    それを持ち帰って外で七輪で焼いて母が佃…
豆腐 ラッパ 音の風景

豆腐 ラッパ

 Too fuu・・・・  大夕張の音の中で、幼い記憶にある豆腐屋さんのラッパの音。          夕張岳を正面に見据える富士見町6丁目方面の急な坂道。雨が降れば雨水が道路を坂道を上から下へと流れ落ち、その跡が道に幾多の起伏を刻んだ道路。    その6丁目の山の方にあった我が家にも豆腐屋さんのリ…