思い出の記 子供用自転車が普及し始めた頃 | Kawauchi Masami 子供の頃の 遊びですが10〜15年毎に 調べると 随分 違うと思います。 私は4つ上の兄がいますが、「三輪車」持っていませんでした。 昭和37年ごろ、「子供用自転車」が無かったと思います。 その頃は、お父さん方の「黒いゴッツイ自転車」で、家の母親は自転車に、乗れませんでしたし、他のお母さん達… 続きを読む
思い出の記 歳の差弁当 |Kawauchi Masami 私達の時代の移り変わりが激しくて、私達のお母さんも、20歳で子供産む人と、35歳で子供産む人もいます。そうすると、お母さんの年齢差、15才ですよね。 お母さんの年齢差15年も有ると、弁当の内容が、全然違いました。 まず、遠足のおにぎり。 私は、購買会などの包装紙でしたが、私のお母さんより若い… 続きを読む
思い出の記 夕張そして札幌へ|Kawauchi Masami 昭和29年6月2日、 父 河内正雄 、母 君江 の三男です。 氏名 河内正三(まさみ)、 南清水沢で、産ぶ声をあげます。 父は、大夕張鉱業所に働いていましたが、住宅が当たらない為、寮に入っていたと聞きました。 私が2歳の時、緑町に住宅が当たり、そこから18歳までの大夕張生活でした。 18歳… 続きを読む
思い出の記 湯浅純治先生のこと |Kawauchi Masami 湯浅先生との出会い 鹿島小学校で、湯浅先生を初めて見たのは 3年生から4年生のクラス替えの時です。 私は1・2・3年生の3年間、女の佐藤良子先生でした。 その年、私は4年桜組で、校舎は、新校舎3階建ての1番下の一階でした。 職員室は2階か3階でした。私達は、玄関の横のクラスでした。私達は入り… 続きを読む
思い出の記 大夕張のバンドブーム | Kawauchi Masami うたた寝をしていると、ラジオから長渕剛の『乾杯』が流れてきました、1980年の曲です。 私は、1977年結婚したので、『乾杯』の詩が、なんか重なるような、気がします。 大夕張で知り合い、南部で大きな舞台に立ち、2人で歩き始めた道。色々な事がありました。ほんと、色んな事あったな〜。 協和会館別… 続きを読む
思い出の記 奥鹿島の『三時間耐久レース』|Kawauchi Masami 昭和56~59年(1981~85年)頃、明石町から開拓の奥、農家を辞めた地主さんに土地を、ただで借り、自分達でコースを作って、50ccバイクで『三時間耐久レース』をしました。 場所は奥鹿島分校からあと、橋を渡って500mぐらいの所です。 地主さんの名前は忘れましたが、「元は南部の下夕に開拓で入っ… 続きを読む
思い出の記 坑内にかかる盤圧 | Kawauchi Masami 大夕張の坑道 今日は 坑内でないと 分からない 出来事 書いてみますね。 写真に写っているのは、採炭現場で天盤を押さえるカッペと言う道具です。 丸いピンと平べったいピンの、2本のピンで止めて行きます。払い(採炭現場)が進むと、後ろのカッペを外して、前に付け替えます。丸いピンだけなら、『お辞儀… 続きを読む
思い出の記 八百五十スキー宿泊 |Kawauchi Masami 大夕張から、八百五十山頂。赤い線は、神社裏からの尾根伝いのルート。冬に八百五十のゲレンデに行くには、鹿島小学校裏から、宝の沢に沿ってのルートがあった。八百五十のゲレンデは、山頂直下の急斜面の下の緩やかな傾斜地だった。その傾斜地の途中にヒュッテがあった。 (目 次) 準 備 出 発 山小屋… 続きを読む
思い出の記 昭和44年 修学旅行の思い出 | Kawauchi Masami 昭和44年(1969年)6月、鹿島中学校修学旅行。 車内に入って来た、担任の西田先生です。 私たちは、層雲峡、川湯温泉、阿寒、原生花園などへ行きました。 友達が、川湯温泉だったと思いますが、温泉のお湯を飲んでしまい、次の日、声が出なくなってしまった事が有りました。 原生花園へ行った時、オホー… 続きを読む
思い出の記 鹿島中学校科学クラブ ゴーカートづくり| Kawauchi Masami 鹿島中学3年生の時、科学クラブに入りました。 クラブは、2つに分かれていて、化学と物理学で、私は物理学部でした。 3年生の時、文化祭で、2サイクルエンジン ・4サイクルエンジン・ロータリーエンジン、の仕組みを紙に書いて貼り出した事が有りました。 覚えていないかなあ・・・当時、化学部は水素に誤… 続きを読む
思い出の記 初めてのアルバイト|Kawauchi Masami 昭和43年、中学2年生の冬、2月ごろでした。 アルバイトはその日、20~30人ほどいたでしょうか? アルバイトに行く人は、スコップ持参との事でした。親父は、前の日にスコップの柄の所に、手に雪が付かない様に縄でドゥナツの様なワッパを付けてくれました。 そのスコップを持って、朝7時ごろ迄に、大夕… 続きを読む
思い出の記 磯次郎の沢のビーバーダム | Kawauchi Masami 昭和35年頃の磯次郎の沢【白黒写真に着色した画像) この写真は、磯次郎の入り口です。 行っても、行っても同じ様なカーブが続き、終いに何処まで来たか、わからなくなる様な光景でした。 その中でも、一つ一つのカーブの特徴を覚えていて、場所によっては切り立った崖があり、そう言う所に山苺がへばり… 続きを読む
思い出の記 東京オリンピックとカラーテレビ|Kawauchi Masami 昭和39年 、1964年。 街は東京オリンピックの年で盛り上がっていました。 丁度、カラーテレビが普及し始めた時期で、まだ、一般の家庭では、高値の花でした。そんな時、あの池田屋食堂に、カラーテレビが置かれました。当時、19万円って、言ってた様に記憶しています。私が小学校4年生の時でした。 その… 続きを読む
思い出の記 大夕張春夏秋冬|Kawauchi Masami 春 雪が解けて、道の端っこに、冬の間、犬がした糞が出てきます。 中学の通学のとき、突っぱねを上げない様に歩くのですが、それでもズボンの後ろに、跳ね上がった泥を付けてしまいました。 小学生の頃、雪が解けて道が乾き始めると、自転車に乗るのが楽しみでしたね。雑草は黄色い芽を付け、水仙の花が早めに咲… 続きを読む
思い出の記 坑内の愛らしき動物 | Kawauchi Masami 坑内のネズミの話し。 坑内至る所にネズミが居ます。 交代番になると休憩所を作りました。 何故なら、坑道には、風が回っています。メタンガス排除や、新鮮な空気を送るため、結構、寒いのです。 そこで、風を防ぐため、ビニールで風を防ぐ小屋を作りました。会社も暗黙の了解と言う感じでした。そこに、当然… 続きを読む
思い出の記 坑内での動力について | Kawauchi Masami 今度は坑内での動力の話。 まず電気ですが、もちろんモーターですが、火花の出ない、防爆方を使います。 電気モーター 電気モーターは、大きな力を必要な時に使われます。 払いの機械や、H型コンベア、直径32mmのワイヤーを巻いたり人車を巻く巻き上げ機。ベルトコンベア、ガス警報器、その他です。 圧縮… 続きを読む
思い出の記 ラーメンと給料日の話|Kawauchi Masami 当時のインスタントラーメン、『あけぼのラーメン』『よっちんラーメン』『ハイトップラーメン』などありましたが、一番人気あったラーメンは、『ちびっ子ラーメン』です。 当時、春日町の各家庭で、30コ入りのインスタントラーメンを、箱買いしてました。それで、各家にある、ラーメンを持ち寄った為、さまざまな種… 続きを読む
思い出の記 川に落ちた話|Kawauchi Masami シューパロ川で遊んでいて、滑って転んでしまい、服が上から下まで、べしょ べしょに濡れました。 小学校低学年の頃です。 「母親に叱られる」と、途方に暮れていました。『どうしょう』と、思っていた時、目の前に、母の好きな ミツパが有ったのです。 すかさず、山菜の三つ葉を取り、母に「三つ葉を取ってい… 続きを読む
思い出の記 パチンコづくり|Kawauchi Masami 当時、おもちゃのパチンコが、売っていました。 弾の所、ゴムの真ん中に、革見たいのが付いていて、小さい石っコロを飛ばしていました。 でも、ゴムが輪ゴムを切った様な貧弱なものでした。 子どもの頃、パチンコ も、自分達で作りました。 形は山という時の真ん中の長い 棒を下に向けた形。両方の山の字… 続きを読む
思い出の記 花火で鉄砲を撃った話|Kawauchi Masami 花火の話ですが、昭和35年ごろ、すり花火とダイナマイトと言う爆発する花火が、有りました。すり花火はマッチ箱で、すって火をつけます。ダイナマイトは、道火線が付いていて、道火線にマッチで火をつける花火です。 すり花火は、マッチ箱のするところで、こすると火がつきます。そこに、缶詰の缶をかぶせると、電信… 続きを読む