随想 タイムカプセル | 石原賢治 最近テレビ番組で、10年前ですとか、もっと昔の子供の頃、学校でタイムカプセルを埋めてそれを再び掘り出す様子を見ます。 大人になったらこうなりたいとか、当時の絵だとか、作文なんかが入っていて、見ているほうがほほえましくなったり、目がウルウルになったりします。 私の記憶違いかもしれませんが、鹿島… 続きを読む
随想 At Seventeen|宇良田彰 大夕張出身の団塊の世代の皆さん! お元気ですか? 世の中不景気ですが頑張ってください。暗い話題が多い今日この頃ですが、多感な頃を大夕張で過ごした同郷の仲間には頑張ってほしいと思う今日この頃です。 17才の頃、大夕張の地でそれぞれの青春を過ごした仲間にジャニス・イアンの「At Seven… 続きを読む
思い出ばなし コークス工場のにわかプール|小林光志 昭和30年前後、私が小学生の頃、栄町のプールは、自由に使用できませんでした。 開放日には、大夕張中の人が来るので、手足を伸ばして泳げませんでした。 なにより期間が短かったので、もっぱら洗炭場の上や、いそじろの沢などで泳ぎました。 しかし、秘密の場所がありました。 それは、コ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 酸とアルカリ その1|高橋正朝 #58 例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。 昭和43年明石町住宅地図 居住者のことについて、以前投稿した内容と、一部重複します。 私が、鹿島東小学校の1年生か2年生の、夏ごろの季節だった。 柿崎徹さんや、小林順治さん、それから阿部寛子さん… 続きを読む
思い出ばなし 同級生との不思議な縁|里見尚子 昭和35年2月生まれです。 父の転勤で、鹿島小には昭和43年から46年まで在籍していました。 最後の担任の先生は、木村国男先生でした。 本当にやさしい、一番好きな先生でした。 当時は、炭坑がまだ栄えている時期で、転入生も多かったのを記憶しています。 私は、富士見町1丁目、スキー場のす… 続きを読む
思い出ばなし 坑内での弁当|今井一郎 長谷川さんの『食憶(エピソード1)』を読んで思い出しました。 そうそう。みんな水筒には、お茶。特大のマヨネーズのチューブには、水を入れて凍らせていました。 入坑してすぐには凍っていて飲めないので、チビチビと休憩の度に解けた分を飲むと、節水(?)にも役立つとのこと。 私も真似をしようと思い… 続きを読む
思い出ばなし 清明寮のパン|野崎昭雄 春日町の川向こうにある沢を、「礒次郎の沢」ということを、『散歩道』の中の住宅地図を見て、初めて知りました。 ガラス箱メガネと、ヤスを持って、ゴタッペをよく刺しに行ったにもかかわらず、今日まで沢の名前を知りませんでした。 小学校2~3年生のときに清明寮の近くに住んでおりましたので、この沢には、よ… 続きを読む
随想 鹿島小学校39期卒業生(菊組)|小林俊治 私は、鹿島小39期生です。昭和42年卒業です。 当時、春日町45番地にいました。(詰所のそば) 担任は、久々湊先生でした。 私事で恐縮ですが、わんぱくであったため、よくゲンコツされました。 父親のようなどっしりとした存在感のある先生でした。 冬の昼休み、教室の窓から、外に積もった… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 苛性ソーダと石けん その2 |高橋正朝 #57 鹿島東小学校の高学年のときの、授業で石けんをつくることが中止になったことは、前回書いた。 テレビで、石原裕次郎の撮影所での行動が映された番組があった。 撮影が終わった後、裕次郎が、風呂場で、髪の毛を固形石けんで洗っていた。 我々が子どもの時分は、髪の毛を洗うときも、普通の固形石けんだった… 続きを読む
随想 訪れてみたい|野崎昭雄 私は、昭和26年4月から昭和33年3月まで、小学校2年生から中学校1年生までを鹿島小学校、鹿島中学校で学び過ごしました。 住んでいたところは、春日町、富士見町、千歳町、そして緑ヶ丘(小学校の上)でした。 思い出深い街です。 小学校には小熊先生、林先生、尾崎先生、熊谷先生と特色ある先生が、教鞭… 続きを読む
随想 名古屋から愛をこめて |二木 晃 昭和十三年生まれ、鹿島中学校卒七期生です。 パソコンをいじっていて、傲然、大夕張のホームページを見つけました。本当に懐かしく、ドキドキしながら、すべてのコーナーを拝見しましたが、皆さん、若い方ばかりの投稿で、ちょっと寂しい気がしないでもありません。 六十歳を過ぎたものには、パソコンはむりなので… 続きを読む
随想 坂本弁護士の奥様について|乗田功一 オウム事件で坂本弁護士一家が犠牲となるという忌まわしい事件からちょうど9年ということですが、弁護士の瀧澤秀俊さんが、この事件をテーマにしたHPを立ちあげています。 坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡 (dti.ne.jp) その中で「都子さんへの追悼文集」というページに、18年前… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 苛性ソーダと石けん その1|高橋正朝 #56 私が鹿島東小学校の高学年だったあるとき、授業で、先生が、石けんを作ろうと言った。 理科の教科書に、石けんのことが出ていたからだ。 石けんの具体的な作り方が、教科書に載っていたわけではない。 油と苛性ソーダで作ると書かれていただけだったように思う。 油は皮膚につくとべとつくから、それ… 続きを読む
思い出ばなし 濃いめの味 |斎藤敏幸 長谷川さんの『食憶』にもありましたが、我家の味付けも塩分の多いものでした。 父は、採炭夫で先山をしていましたので、食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てられていました。 何を食べるにも、たっぷりめの醤油と、極めつきは、『味の素』の山です。 特にサケは「塩引き」といって、焼き上げても表… 続きを読む
思い出ばなし 父がつとめていたコークス場 |山本栄子 発電所の隣にあったコークス場。 私が高校生位の頃迄、父が勤めていました。 二交代の勤務制だったと思います。ある日、雨が降りだし、傘を持って線路沿いに歩いて行った記憶があります。 石油等が輸入されるようになり、コークスの需要が少なくなったせいで、井出組?さんに、渡すという件で、当… 続きを読む
思い出ばなし 緑の中の大夕張駅 | 野口美代子 懐かしの写真の中に、大夕張駅を見て本当に帰って来たと思いました。 停車場(昔私が子供の頃、年寄達は駅のことをこうとも呼んでいた気がします)は人を見送って、見送られ、又会っての繰り返しの場でした。 大夕張駅は、ただただ別れの駅になってしまいました。 札幌へのバスが通るようになって、バス停が… 続きを読む
随想 北海道言葉と食べ方の話題|佐々木洋子 私の住んでいる君津には、たくさんの大夕張出身者がいると思います。 引っ越しした当時は、同じ団地に住んでいました。 皆 家を建ててバラバラですけど・・・ さて、北海道方言と言えばたくさんありますが『うるかす』(つける・ひたす)は、標準語だと思っていました。 10数年前に、千葉県人に指… 続きを読む
思い出ばなし 東小向こう岸のアンモナイト化石 | 小林光志 昭和35年ころ(私が中学1年)、毎日、春日町から鹿島中学校まで登校していましたが、時々悪がき仲間と通学路を離れて登校しました。 春は、うど、夏はスイカ、秋は大根人参などずいぶんご馳走になりました。 シューパロ川に沿って、行くこともありました。特に便所場球場から下流は、川沿いに道のないところ… 続きを読む
思い出の記 昭和47年 宝町3丁目の炭砿住宅と妻|Kawauchi Masami 白黒写真に着色した画像 宝町3丁目の炭砿住宅。妻と姉。 向かって左で犬を抱いているのが妻で、赤ん坊を抱っこしているのが、妻の姉、そして近所のおじさんです。 妻は、北菱閉山で大夕張に来て、大夕張閉山で登川にいきました。昭和47年(1972年)ぐらいに大夕張に来て、75年には登川に行っています。… 続きを読む
続・大夕張つれづれ pH ( ペーハー ) | 高橋正朝 #55 鹿島中学校2年生の理科の授業で、水の電気分解が実施された。 窓の外の木々は、まだ緑の葉をつけていたので、2学期になって間もないころだったと思う。 理科の担当は、デンスケと生徒たちが勝手にアダ名した、大宮六郎 先生だった。 私たち K 組の担任でもあった。… 続きを読む