随想 『東京家族』、そして『あの橋の畔(たもと)で』|ziny またまた当選して、今、うわさの「東京家族」の特別試写会へ行ってきました。 弟が生まれた昭和28年につくられた小津安二郎監督の「東京物語」の現代版です。 スカイツリーや、横浜の観覧車も登場します。故郷から遠く離れた東京で暮らす子供たちを老親が訪ねるお話。 ふるさとを離れて、それぞれの生活リズム… 続きを読む
思い出の記 川に落ちた話|Kawauchi Masami シューパロ川で遊んでいて、滑って転んでしまい、服が上から下まで、べしょ べしょに濡れました。 小学校低学年の頃です。 「母親に叱られる」と、途方に暮れていました。『どうしょう』と、思っていた時、目の前に、母の好きな ミツパが有ったのです。 すかさず、山菜の三つ葉を取り、母に「三つ葉を取ってい… 続きを読む
随想 夕張奥のトムンチ・コタン|准 「夕張の奥にトムンチ・コタンというところがあり、ここには性の悪い熊でも獺(かわうそ)でも貉(むじな)でも蜂でも、この世の中であらゆる悪いことをした者を集めて置くところがあると伝えられている(名寄市:北風磯吉老伝)。」 * * * 雨天と低温続きの大型連休でしたが、明日で終わります。 … 続きを読む
思い出の記 パチンコづくり|Kawauchi Masami 当時、おもちゃのパチンコが、売っていました。 弾の所、ゴムの真ん中に、革見たいのが付いていて、小さい石っコロを飛ばしていました。 でも、ゴムが輪ゴムを切った様な貧弱なものでした。 子どもの頃、パチンコ も、自分達で作りました。 形は山という時の真ん中の長い 棒を下に向けた形。両方の山の字… 続きを読む
続・大夕張つれづれ スイングバイとSF|高橋正朝 #5 私が住んでいた明石町番外地の自宅の斜め後ろに、小林順治さんが住んでいた。彼の2歳上に、和子さんがいた。 ある日、彼女がもういらないからと言って、旺文社だったか学習研究社だったか覚えていないが、学年雑誌を二十冊ほどいただいたことがあった。鹿島中学校の1年生のときだったように思う。 ご存知のように… 続きを読む
思い出の記 花火で鉄砲を撃った話|Kawauchi Masami 花火の話ですが、昭和35年ごろ、すり花火とダイナマイトと言う爆発する花火が、有りました。すり花火はマッチ箱で、すって火をつけます。ダイナマイトは、道火線が付いていて、道火線にマッチで火をつける花火です。 すり花火は、マッチ箱のするところで、こすると火がつきます。そこに、缶詰の缶をかぶせると、電信… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 鹿島東小学校すぐそばの住宅火事|高橋正朝 #4 前回、#3で岳富町の商店街の火事のことを書きましたが、翌年の5月か6月のころ、鹿島東小学校すぐそばの住宅地で火事があった。東小学校の校門から出て、すぐそば、千年町駅へ向かう坂のところです。 この火事のときも、明石町から黒い煙が立ち昇るのが見えた。各家庭で夕食の準備をする時間帯だった。同級の男子生… 続きを読む
随想 YS11の町にて思う|柳川 傑 昭和37年(当時小5年)に、春日町から現在の愛知県三好町に家族そろって転居して来ました。 親父(故人)が、当時、大夕張炭鉱の労務の仕事をしていて、炭鉱離職者を引き連れ、農村地帯だった三好町が、工場誘致条例の第1号として誘致した、三菱の「YS11」プロペラ機の部品工場であった「三和金属」に転職して… 続きを読む
思い出の記 汽車と競走した話|Kawauchi Masami 昭和40年ごろ、東京に旅行に行って速い電車に慣れて、大夕張鉄道に乗ったとき、遅くて 遅くて、なんだこれっと思ったものでした。清水沢〜遠幌間が、特に、遅かったと記憶しています。 小学校5年生の時、清水沢〜大夕張まで、汽車と24インチの自転車で競走した事が有りました。 いい戦いでした。 … 続きを読む
思い出ばなし 語り継がれた話|佐々木広行 もう27年前の事ですが、通学で毎日大夕張、清水沢間を、今では名前も忘れましたが、SLで通っていた頃のことです。 当時、私は、夕張南高校へ行っておりまして、毎日SLを利用していた訳なのですが、有る日、登校の時だったか、下校の時だったかは忘れましたが、いつものように、SLに乗っていました。 座席が… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 「痛快ブック」と岳富町商店街の火事|高橋正朝 #3 私が鹿島東小学校3年生の春、明石町番外地の自宅の外で、寺田ヒロオのマンガ、「 背番号ゼロ 」を手にとっていた。 表紙に 「 新漫画党 」 と書かれ、黒丸の上から下に稲妻形のマークが入っている。 稲妻形と思ったのは、アルファベットの S の図案化だったのを後に知る。 つまり、「 新漫画党&… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 寺田ヒロオのマンガと読者~観客者の想像力~|高橋正朝 #2 私が鹿島東小学校2年生のとき、小学館の学習雑誌、「 小学2年生 」に掲載されていた、寺田ヒロオ のマンガの意味がわからず、悩んだ、と形容するほどでもなかったが、断続的に何十回も考え、ようやく東小学校4年生ぐらいのとき、理解できたものがあった。 このマンガ、小学2年生用だったのだが••••••。 … 続きを読む
随想 窓が埋まったときは!|内川准一 一昨日。我が家に1本の電話。電話の主は亡・父親宅の隣家。 「あの~○○ですけど~」、妻「何かありましたァ?」、隣人「屋根から雪が落ちて家の壁に当たったんですけど、みてもらいたいんですけど・・」、妻「分かりました、帰ってきたら夫に電話させますから。」、隣人「なるべく早くお願いします。」プツン。 … 続きを読む
続・大夕張つれづれ 鹿島東小学校1年生|高橋正朝 #1 私が鹿島東小学校1年生のときの担任は、長谷川ヒロコ先生でした。 飯田さんがスマホ用に編集転載した、「 大夕張つれづれ #18 」にその原文が載っています。 したがって、ここに書き込んだ内容は、一部その原文と重複します。それに、飯田さんとやり取りしたメールの一部を書き加えました。 最初の P… 続きを読む
随想 文集『ヤマの子』|高橋 歌子 昨日、実家の押入れを整理していましたら、東小学校時代の卒業文集と「ヤマの子」と題する文集が三冊出てきました。 これは小学5~6年に担任だった吉田要作先生がまとめたものです。 B4判の茶色の紙にガリ版で印刷され、まるで活字を使ったかのようにきれいで丁寧な字で埋められています。 「ヤマの子」は夏… 続きを読む
思い出ばなし 羆に脅かされ羆に助けられた話|ふぉんていん はじめまして、匿名にて失礼します。小生、緑町で生を受け(産婆さんは池田さんと仰る方です)、東高卒業まで大夕張に在住しておりました。 「大夕張掲示板」に邂逅し、望郷の念で筆を執らせてもらいました。 昭和四十年代前半だったと思いますが、シューパロ湖畔で飼われていた羆が脱走したことがありました。ハンタ… 続きを読む
思い出ばなし 幼稚園の思い出|工藤 央 色々思い出に関してかかれていますが、私もひとつ思い出したことを書きます。 昭和44年頃だったと思います。 当時風邪をひきやすい体質だった私は(今は頑丈すぎるくらいです)、数日間幼稚園を休んでいました。しかし熱も下がり体調も良くなったので、久しぶりに幼稚園に行くことになったのです。 しばらくぶ… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張でのお盆 【回想】 最後のお盆を過ごしたのは・・・ 【三浦ユキヒロ】 大夕張で最後のお盆を 過ごしたのは、何時だったかなーー 関西で暮らしていた時の、束の間の帰郷かな~ それが大夕張のお盆時期だったのかも知れないと、朧気な記憶の彼方から、細い絹糸を手繰り寄せる様に、脳裏に浮かんで来ました。 あの、裸電球に赤〃と… 続きを読む
思い出ばなし お盆の花火|石原賢治 出張で実家(福岡)に寄り父親と話した際、お盆の花火のことで書いて欲しいといわれまして、ひと言。 お盆、8月15日(旧の盆)の夜、山神社脇から打ち上げ花火をあげていました。 専門の花火屋さんを雇うわけでなく、会社の社員の方で北沢さんという方が、あげていたそうです。 他にも何かの連絡ごとで、明… 続きを読む
思い出ばなし 思い出ばなし ソリと竹スケート|成田利夫 竹スケートは、良く滑っていましたよ。 値段は忘れましたが、とても安く売っていたと思います。かばんに入れて学校帰りに滑って帰ったものです。 ある日、馬ソリほど大きくはなかったですが、大きなソリで、3人で坂道を滑って、そのまま、すごいスピードがついて、カーブでひっくり返りました。 その時、私がソ… 続きを読む