楽しかった日々 シューパロ川 川遊び 昭和30年頃 本間正雄さんが、シューパロ川上流に泳ぎに仲間といったという際の懐かしい写真。 年上らしい二人の人物がうつっているが、筋肉質のたくましく、がっちりとした体つきをしている。 知り合いの子どもたちをつれての川泳ぎだったのだろうか。 白黒写真に着色した画像… 続きを読む
随想 快い響き|池田憲治 ”大夕張”(おおゆうばり) それは私のように遠く離れている者には、すごく快い響きの単語です。 私は、樺太真岡の鉄道官舎で生まれました。 「九人の乙女」の内の一人伊藤千枝は親類です。 今、私は愛知に住んでいますが、近くに住んでいる叔母は、私の家族と共に移転するまでは、樺太真岡の郵便局に勤めて… 続きを読む
楽しかった日々 灯籠流し 8月16日、お盆が終わると、亡くなった人の御霊を送るため、まだ陽のあるうちに、千年町の寺院に檀家が集まりだす。そして、お寺の住職さんを先頭にシューパロ川に向かって行列を組んで歩き出す。 日が暮れてあたりが薄暗くなるころ、川に灯籠が流され、ろうそくの灯りが揺らめきながら、川面をゆっくり、静かに… 続きを読む
思い出ばなし シューパロ川の灯籠流し|小野美音子 お盆も過ぎシューパロ川に秋風が吹く頃となりました。 彼岸を渡った魂は、忘れ去られることを寂しがると聞きます。 私には麻疹の予防注射がもとで、赤ん坊の時に亡くなった兄がおり、毎年、妙法寺の灯籠流しに、参加しました。 まだ日の明るいうち、妙法寺には沢山の檀家の人々が集まり、お上人さんを… 続きを読む
2丁目3番地 2002年 倒壊した地蔵堂 『無縁供養・水子地蔵』が、当時親類縁者のない人たちの供養と、水子供養のために、昭和16年8月、大聖寺境内に以来建立されていた。 この他、水子供養地蔵は、大夕張のほとんどの寺院にあった。 2002年冬、大夕張の最後の建築物であった『位牌堂(地蔵堂)』が雪の重みで倒壊した。 このことは、… 続きを読む
夕輝文敏 路面電車に揺られて|夕輝文敏 路面電車に、少し疲れた心を乗せると、路面電車は、優しく包み込んでくれるかもしれない。年の瀬も迫ったクリスマスの夜、私はそんな路面電車に出会った。 その夜、私は一人ぽつりとグラスを傾け、店の窓から路面電車を眺めていた。 電車の車窓の向こうには、昨夜の食卓テーブルが見えてくる。クリスマ… 続きを読む
随想 位牌堂(地蔵堂)|内川准一 建物が無くなったはずの大夕張に、この春(2002年)まで、実はひとつの建物があった。 千歳町の火葬場に至る道路脇にあった位牌堂(地蔵堂)だ。 あったと言うのは、この春、雪の重みで倒壊してしまったから・・・ 中に納められていた位牌2千7百は、散乱しないよう4体の地蔵と一緒に倒れた建物ご… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 乾電池 その2 | 高橋正朝 #53 私が、鹿島東小学校4年生のときである。 シタジキをこすって静電気を起こし、細かく裂いたチリ紙をくっつけてみたり、同級生の頭の上にかざして、髪の毛を逆立てたりして、遊んでいた。 当時のクラスの男児の多数は坊主頭である。 25人ぐらいいたクラスの男児のなかで、坊ちゃん刈… 続きを読む
思い出の街角 緑町浴場 昭和49年 白黒写真に着色した画像 『鹿島小学校から歩道橋』に掲載した写真の一部分 浴場部分を切り抜き ここの2階に写真館があって、お風呂の入口に宣伝のために、写真館で撮った人の写真が飾ってあった。 ある時、初恋の人の写真が飾ってあって、夕方お風呂へ行くたびに眺めていた。 甘酸っぱい思… 続きを読む
随想 緑町浴場帰りの兄 |小野美音子 「宝の沢探検」を愛した私の兄、伸也は、大人になっても仲間と川上りで秘境の滝を再発見し、日本の滝百選に応募し選ばれたり、アラスカに行き、ローカルな新聞やTVに出て、母を喜ばせる、ゴッツい山親爺になりました。 そのコワモテの風貌は、新聞屋の親戚の役にも立ち、お金を払わない客の家の玄関に、兄がヌ… 続きを読む
思い出の街角 鹿島小学校校門から歩道橋 『食憶 その9 歩道橋の午後3時』を書いた長谷川さんや、『歩道橋』で、思いを書いた成松さんは、完成当時鹿島小学校児童で渡り初めをしたという。昭和44年(1969年)のことと思われる。私はすでに小学校を卒業していた。 長谷川さんは、『おやつタイムを過ごした特等席』、成松さんにとっては、『都会… 続きを読む
思い出の記 煙草の話|Kawauchi Masami 大夕張の職人さんは殆どくわえタバコでしたね。 一つのファッションでした。 工場内は、煙草吸ってましたし、今、思い出しても、煙草を吸っていない男の人いませんでしたね。 禁煙の記憶有りません。 南大夕張は、進発所に電気コンロが置いて有って、煙草に火をつける人もいました。 でも殆どの人… 続きを読む
訪問記 星空を見に|飯田雅人 平成11年(1999年)8月5日(木) 8月の夜。鹿島小学校グランドで我が家の『星空の観察会』をおこないました。 晴れた日に、そして月明かりのない晩に、どうしても大夕張の星空を見てみたかったのです。 この日思い切っていくことにしました。 午後6時半、家族を連れて自宅を出発。車中で夕食をすませ… 続きを読む
随想 学のある話 |丸山直記 子供のころから私はクラシック音楽が好きでした。 今でもオーケストラでチェロを弾いています。 あのころ大夕張ではチェロなぞ目にすることもなかったので感慨深いものがあります。 そう言えば、中学校の音楽の先生で、上村先生がヴァイオリンを弾かれ、教えていたのを覚えています。 上村先生はその後、札幌… 続きを読む
陳列棚 礦業所禁煙区域図 掲示板 大夕張砿業所 禁煙区域図 図左端のゲートから、ほぼ全域にわたって『火気禁止区域』が設定され、その中でも、『喫煙具携帯許可地域』と『喫煙具携帯禁止地域』が定められています。 … 続きを読む
思い出ばなし 子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子 子供を失った母は、父の出勤後、昔風の舅と狭い家に一緒にいるのを辛く思う時があり、映画館に行ったことがありました。 気兼ねなく涙を流せたからです。 しかしそれも舅の意に染まず、母は妙法寺へ向かいました。 裏からそっと納骨堂に入り、亡き子の骨と共に一夜を明かしました。 父は、夜通… 続きを読む
思い出の街角 開業した頃の湖畔亭 昭和38年頃 白黒写真に着色した画像 開業間もない頃の湖畔亭。 この写真を見たときに一番先に思い出したのが、入り口の上の看板に書かれた『亭畔湖』だった。 開通した清水沢-大夕張間の道路をバスで「湖畔」停留所の前を通ると、バスの窓からこの文字がよく見えた。 そのたびに、右から書かれたこ… 続きを読む
2丁目3番地 三冊のアルバム 1950年代 場所は『病院の裏の方・・・というが?』 父が残したアルバムがある。 父は大正14年生まれだから、昭和の歩みと、年齢が一緒でわかりやすい、と子どものころ、よく父の年齢のことについて、家族で話していた。 だが父は昭和47年に亡くなったので、47歳までしか数えることはなかった。 … 続きを読む
写真 夜明けの炭住街 【立ち並ぶ炭住と夕張岳】 富士見町は鹿島小学校前の1丁目を起点に,礦業所前の沢を境に6丁目まであった。 6丁目からは、畑やかつての炭住跡をたどって簡単に裏山に入ることができた。 そのあたりの山から撮影したものだと思われる。 夕張岳の麓に整然と立ち並ぶ炭鉱住宅が印象的。 昭和30年(19… 続きを読む