楽しかった日々 野球あそび 昭和40年頃 中学生達の頭も丸刈りが、そのころの『常識』だった。1965年、今から50年程まえのこと。 場所は、栄町のブロック横だろうか。 おそらく、この写真の右手には、富士見町の山からわき出る沢水の流水溝が『理容フレンド』の横を通り、栄町の大きな通りの下を潜って、栄町のあたりでまた顔を出… 続きを読む
2丁目3番地 地図に引かれた一本の線 昭和37年「石狩鹿島」 よく見て欲しい。この地図には、南部二股、大夕張ダムの位置に一本の線で書き込みがある。 昭和37年発行の地図だから、当然まだ大夕張ダム完成以前の地図である。 今から20年以上前、「ふるさと大夕張」で活用をと、ある方から手渡された地図だった。 この地図の持ち主であるJUNさん… 続きを読む
思い出の記 桜組野球チーム |Kawauchi Masami 昭和40年、鹿島小学校グラウンド、バックネット前 白黒写真に着色した画像 私は前列中央 バックネットの後ろにテニスコート、スキー場、富士見町の住宅がみえる。 私達、鹿島小学校、桜組は野球部が有りました。 1軍と2軍がありまして、鹿島東小学校の選抜チームと試合をするのに、東小学校まで行きま… 続きを読む
思い出の街角 雨上がりの購買会栄町支所 昭和45年頃、購買会栄町支所。栄町の購買会。 写真は、栄町アパート前から。 この通りの先を行くと、炭砿病院、礦業所方面。 購買会の向こうに見える富士見町の四軒入ったブロックは、『炭砿病院前』の頁で、シズコちゃんと一緒に父に写真を撮ってもらった場所だ。 冬になると,この通りの道の両側には… 続きを読む
思い出ばなし 汽笛の目覚まし|今井和弘 私は、昭和38年2月に、富士見町5丁目48番で生まれました。 その後、富士見町4丁目1番、富士見町1丁目13番と引越しをして、昭和47年5月に、ふるさと大夕張を後にすることになりました。 その9年あまりの間、思い出は星の数ほどありますが、ここでは4丁目の家での思い出について書きたいと思います。… 続きを読む
楽しかった日々 夏の子どもプール 昭和39年夏。 健保会館そばには、花壇で彩られた広い前庭。そして大小二つのプールがあった。 「大人用プール」と「子ども用プール」。 富士見町線路側には、大人用があり、こちらの栄町ブロック側には、子供用があった。 深さも、せいぜいちいさな子どもの腰あたりまでしかない、浅いプールだった。 … 続きを読む
夕輝文敏 バス停 |夕輝文敏 そこには、寝息を立てて横たわっている七二歳の父がいた。 ここが病院のベッドでなければ、まるで安らかに睡眠をとっているかのようであった。 屈強な体で、かつて石炭を掘り続けていた父が、今は病院のベッドの上で生死の境を彷徨っていた。 今朝方、父はスキー場の倉庫で意識不明の状態で発見された。… 続きを読む
楽しかった日々 シューパロ川上流 川遊び 礦業所以北の官行、シューパロ川上流地域では浅瀬で河原も多く、絶好の川遊びの場所になっていました。ウグイやフナ、ヤツメウナギ、石の下に潜む水中生物を採集することができました。 網や、手拭いを使って、魚を掬いとろうとしているところのようです。 白黒写真に着色した画像 シューパロ川上流の水遊び… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 5寸釘 その1 |高橋正朝 #50 当時、5寸釘は貴重なものだったが、たいていの男児は、どこかで見つけたものを持っていた。 5寸釘を利用した簡単な遊びは『 釘刺し 』である。 それほど流行した遊びではなかったが、私の年代の小学校低学年の男児は、わりとよくやっていた。 しかし、女児は、その遊びをしているのを、私は見たことがない… 続きを読む
街の行事 昭和29年7月稚児祭 細川新聞店前 昭和29年7月18日の稚児祭。 明治43年(1910年)生まれの私の祖母と昭和21年(1946年)生れ、当時8才だった叔母の姿も写っている。 場所は千年町の細川新聞店前。 写真には、色鮮やかな着物や被り物で着飾った子どもたちを中心に、法衣姿の住職さんや、世話役、親御さんらしき人々の姿が見える… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張の想い出 | 早坂治敏 自己紹介:昭和26年に生まれて、ずーっと弥生町に住んでました。 鹿島小学校に昭和33年度入学。昭和38年度卒業。 鹿島中学校に昭和39年度入学。父の転居で昭和39年10月17日に大夕張を離れる。 以上が、私が生まれて13年余過ごした大夕張時代です。 小学校時代の恩師の名前は今も記憶してい… 続きを読む
炭鉱とともに 政策転換闘争オルグを見送る家族(大夕張駅前)昭和36年9月頃 昭和36年(1961年)9月。 政策転換闘争のため、オルグとして東京に向かう組合員と見送る家族の姿。 大夕張駅前。 白黒写真に着色した画像 大夕張駅前 後ろには郵便局… 続きを読む
随想 父の無念と別れ |森田伸一 私は昭和37年大夕張の栄町で生まれました。 その後、春日町に引越し、小学校3年生まで大夕張に住んでいました。 今は、山梨県に住んでいます。 閉山を前に炭坑夫の父は、右目に重傷を負い失明してしまい、炭坑夫の生命を絶たれてしまいました。 鹿島を断腸の思いで、離れることになったのです。 … 続きを読む
思い出の街角 加川写真館 昭和50年代に撮影された加川写真館(岳富町)。 加川写真館と、左手、隣にあった八幡商店との暗い小道を行くと、奥に古物商があり、宝沢のトンネルの側を通って、春日町や、宝町に行く坂道にでることができた。(道(春日町~宝町)参照) 建物は、この写真では、いささかくたびれた感は否めないが、昭和40… 続きを読む
思い出ばなし 営林署官舎 | 片山利明 千年町の営林署官舎位置(赤枠) 私の父は営林署に勤務しており、私も昭和43年ころ、千年町の官舎に住んでいました。(父の弟は、鹿島東小の教師でした) 私は、昭和38年生まれで、幼稚園から小3まで大夕張に住んでいました。 5年程前に鹿島東小(3年で転校しましたが)の跡地をみて、もの悲しい思い… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 湖畔の列車 シューパロ湖畔を行く、『No.5』のプレートをつけた9600型蒸気機関車。 噴上げる白煙で後ろの木々も霞む。 まだ湖畔の道路は未舗装のまま。 昭和45年頃だろうか? 白黒写真に着色した画像 シューパロ湖畔をNo.5の引く混合列車が走る… 続きを読む
随想 こころにある故郷|長屋敏子 『林鉄』(りんてつ)の名前が、載っておりました。 今は亡き父母の言葉に出あったように、懐かしい言葉の響きがあります。 ちなみに母は、千年町で『喜多乃屋』の屋号で、そば屋を営んでおりました。 今も年に一度、何も無い家の跡地を訪ねます。 昭和25年頃から48年頃までの思い出が、心に刻まれており… 続きを読む
楽しかった日々 桜荘の女の子 昭和43年頃、千年町の桜荘前にて。 女の子乗っている自転車も当時流行りはじめた子供用の自転車。 男の子の『坊ちゃん刈り』に対する女の子の『わかめちゃんカット』。 当時の子どもたちはみんな同じ髪型でした。 ちなみにお母さんたちは、みんな『サザエさんパーマ』でしたね。 白黒写真に着色した画像 … 続きを読む