月: 2020年8月

昭和18年 鹿島国民学校 教職員勤労報国隊 炭鉱とともに

昭和18年 鹿島国民学校 教職員勤労報国隊

三菱大夕張炭鉱 更衣所(進発所)前  戦争の激化とともに、人手不足を補うため、外国人労務者や、昭和17年には京都から挺身隊が入山しました。  鹿島国民学校教職員による報国隊が組織され、日曜動員で、採炭作業に従事しました。。  当時の学校の日常が、戦争中を回想した次の文章にも出ています。 https:…
流れのように■学校の戦後■|長谷川安造 #12 流れのように

流れのように■学校の戦後■|長谷川安造 #12

 戦後、殊更自由主義、民主主義の徹底等が叫ばれて、教育界の様相も日とともに、移り変わって行った。  私ども学校職員では、いち早く仲間同志で職員組合を早々に結成し、不安がちの各教職員の生活を自主的に、相互に守り合うこととした。 その後、三、四ヶ月くらい経過した頃、組合組織が各地域で唱えられ、夕張市教職…
児童会館(栄町) 思い出の街角

児童会館(栄町)

昭和45年頃。栄町にあった児童会館。 閉山後は,自主運営の保育園として園児30人でスタートし,平成9年3月をもって閉園したということです。 通った児童会館【福山美佐子】  千年町からたま〜に遊びに行きました。 鹿島小の子達が多くて、ちょっと引いてました😅  図書室の窓から隣の公園が見えた。  大夕張…
流れのように■終 戦■長谷川安造 #11 流れのように

流れのように■終 戦■長谷川安造 #11

   終戦直前の頃、内山清治校長の温情により、職員各家庭にて空襲に備え、防空壕を作るものにはその材料を提供するとの話があった。  長さ、幅、厚さと大物であったが、家庭のことが頭に浮かび、防空壕づくりを決心した。    7月末日、お隣の外山正平先生共々、家の前の土手地に壕づくりが始まる。  その最中の…
流れのように■銃後の私(4)■|長谷川安造 #10 流れのように

流れのように■銃後の私(4)■|長谷川安造 #10

 そんな或る年の春、教室で朝の学習が始まって間もない時、教室入口の開き戸を静々とあけ、のぞき込むように「先生,ちょっとお願い」山羊綿羊組合の一会員小林さんだった。  私は学習を中断し、何事かと廊下に出た。  「家の山羊がいま難産で苦しんでいる最中、何とかお願いできませんか」  私は困った。しかしこれ…
思い出の三菱大夕張鉄道 映像

思い出の三菱大夕張鉄道

 昭和47.8年の大夕張鉄道を中心に夕張鉄道の動画も含めて、三菱大夕張鉄道保存会が編集した動画です。この動画がつくられてからもすでに20年くらいたちます。キャプションのついたこの動画がそのものが今は懐かしい。  当時、大夕張に関するいろいろな映像や資料を初めて見て、新しい発見と驚きがいいっぱいありま…
大夕張スタンプ 陳列棚

大夕張スタンプ

 昭和40年代。大夕張駅前では,にぎやかに有線放送が流れていました。商店街では、大夕張スタンプがありました。買い物をするとシールがもらえて,台紙に貼ってためるというものです。  ためると、ちょっぴりお得な気持ちになって、買い物が楽しくなった当時のお母さん方も多いでしょう。もちろん、我が家も集めていま…
流れのように■銃後の私(3)■長谷川安造 #9 流れのように

流れのように■銃後の私(3)■長谷川安造 #9

 動物愛護とか、農林省滝川畜産種羊場と言う言葉を耳にすると、私の戦時中の大夕張での生活が思い出される。  自給自足や増産教育が、全国どこの学校でも盛んで、前回にも一寸述べたところだが、児童と共に『打うちてして止まん』『勝つ迄』の精神で、成し遂げれるものには何でもぶつかっていったものだ。  高学年担任…
昭和46年 鹿島中学校 教室配置図 陳列棚

昭和46年 鹿島中学校 教室配置図

 美術室,理科室技術科室は,私が学んだ昭和43年4月~昭和46年3月の時はだいたいの配置はこのようなものかと思います。  音楽室は2教室あったんですね。 個人的に記憶をたどると・・・小柄ながら熱のこもった伊清先生の授業が思い出されます。  また、2階に上がる角の技術科室では、山崎先生が、オートバイを…
流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8 流れのように

流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8

 年がかわり、私は夕張市三菱大夕張礦業所のある大夕張尋常高等小学校に転勤した。  昭和13年の春の頃で、国内情勢、何処も同様な雰囲気で、この地は前任地に比べて、人口も多いだけに、応召兵士の数も多く、殆んど毎日の様に、大夕張駅ホームまで、高学年児童と共に見送ることとなった。  「勝ってくるぞと勇ましく…
平和祭り 街の行事

平和祭り

昭和30年、稚児祭りのひとこまでしょうか。平和まつりとかかれた行灯が見えていますが、当時、「平和まつり」と呼ばれた「まつり」があったかどうかは、覚えていません。詳細はわかりません。大夕張のお祭りといえば、私には6月の「山神祭」と7月の「稚児祭り」しか思い浮かびません。…
流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7 流れのように

流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7

 昭和20年前までの戦争に参加し、大変な苦労や、戦果を挙げたたこと、又は戦友との悲しい別れ、戦慄厳しい中の色々、家庭的悲喜交々、何れも第一線に臨み、生死の線上に立っての有り難くも尊い体験談をよく聞いたり、読んだりする。  そうした度毎、私はほんとうに長い月日ご苦労様でした、お陰様でありがとうと感謝の…
栄町2丁目17番 思い出の街角

栄町2丁目17番

昭和35年 白黒写真に着色をした画像 栄町2丁目17番。奥には栄町浴場、『リハツパーマの千葉理容院』  娘の自転車を直している父。お父さんの背中で戯れている女の子「お父さん大好き」そんな声が聞こえてきます。・・・ヤマの町の穏やかな一コマです。  手前に石炭庫。スコップが見えています。向こうに栄町浴場…
流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6 流れのように

流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6

 今次大戦では、兄の長男(甥)が角田から出征後、満州で訓練を受け、終戦の春、沖縄に移動、6月の那覇市南方の真栄平で激戦の末、戦死した。兄の家は、二男が鉄道に就職し、当時、空知農学校付属寮母職の母を呼び、のちに嫁を取り結婚。岩見沢市内で家を継ぐ形となる。  私の弟は、終戦と同時に、色丹島で捕虜となり、…
明石町付近 眼下の列車 運んだ、石炭を人を

明石町付近 眼下の列車

昭和48年  崖の上からシューパロ湖、道道、列車を見下ろして撮影。右手に白銀橋が見え、明石町駅付近。閉山提案の年、黒い鋼鉄に白字のペイントが激動の大夕張を感じさせ、事実この年の12月には、この区間は、廃線となってしまった。…
流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし②-■|長谷川安造 #5 流れのように

流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし②-■|長谷川安造 #5

 沼ノ沢から大夕張に引っ越して間もない頃、忘れられない思いがある。  二女は幼少時、ジフテリアにかかった。  小学1年入学前のこと、病院で、再びジフテリアと診断され、血清注射を受けることになった。  草野院長が、「念のためきくが、この子、これまでに血清注射をしたことはないだろうな」ときいた。  私は…