随想 夕張奥のトムンチ・コタン|准 「夕張の奥にトムンチ・コタンというところがあり、ここには性の悪い熊でも獺(かわうそ)でも貉(むじな)でも蜂でも、この世の中であらゆる悪いことをした者を集めて置くところがあると伝えられている(名寄市:北風磯吉老伝)。」 * * * 雨天と低温続きの大型連休でしたが、明日で終わります。 … 続きを読む
音の風景 美鉄バス 大夕張営業所 車内放送 #5 清水沢線(上り)車庫前発清水沢行き(菊水経由) 昭和31年9月に、三菱鉱業バスとして大夕張を走り始めた美鉄バス、平成9年11月の大夕張撤退まで、地区内を走り続けました。昭和62年以降、ワンマンバス用に使用された車内放送のテープです。 車庫前発 診療所前 → 代々木町 → 会館前 → 大夕張 → 岳富町 → 宝町 → 千年町 → 明石町 → 吉野沢… 続きを読む
思い出の記 パチンコづくり|Kawauchi Masami 当時、おもちゃのパチンコが、売っていました。 弾の所、ゴムの真ん中に、革見たいのが付いていて、小さい石っコロを飛ばしていました。 でも、ゴムが輪ゴムを切った様な貧弱なものでした。 子どもの頃、パチンコ も、自分達で作りました。 形は山という時の真ん中の長い 棒を下に向けた形。両方の山の字… 続きを読む
思い出の街角 鹿島通運遠幌営業所 昭和35年頃 丸運鹿島通運遠幌営業所 【本間正雄】 丸運鹿島通運遠幌営業所は、昭和35年前後の写真。建物は大夕張産業と共同で、1階前の部分が丸運。 写真左奥に入り口が見えるのが大夕張産業遠幌連絡所(のちの北菱産業)です。… 続きを読む
続・大夕張つれづれ スイングバイとSF|高橋正朝 #5 私が住んでいた明石町番外地の自宅の斜め後ろに、小林順治さんが住んでいた。彼の2歳上に、和子さんがいた。 ある日、彼女がもういらないからと言って、旺文社だったか学習研究社だったか覚えていないが、学年雑誌を二十冊ほどいただいたことがあった。鹿島中学校の1年生のときだったように思う。 ご存知のように… 続きを読む
思い出の記 花火で鉄砲を撃った話|Kawauchi Masami 花火の話ですが、昭和35年ごろ、すり花火とダイナマイトと言う爆発する花火が、有りました。すり花火はマッチ箱で、すって火をつけます。ダイナマイトは、道火線が付いていて、道火線にマッチで火をつける花火です。 すり花火は、マッチ箱のするところで、こすると火がつきます。そこに、缶詰の缶をかぶせると、電信… 続きを読む
思い出の街角 商店前 (栄町) 昭和45年頃 右手に見えている商店は、『ツバメ電気商会』。 左の商店街は、三菱購買会の北側に閉山前には、7軒、軒を連ねていました。 一番、購買会寄りの『杉田履物店』の横から撮影した写真のようです。大夕張スタンプの看板もはっきりと写っています。 日糧パンのケースが山積みされているのは、隣の『森永牛乳… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 鹿島東小学校すぐそばの住宅火事|高橋正朝 #4 前回、#3で岳富町の商店街の火事のことを書きましたが、翌年の5月か6月のころ、鹿島東小学校すぐそばの住宅地で火事があった。東小学校の校門から出て、すぐそば、千年町駅へ向かう坂のところです。 この火事のときも、明石町から黒い煙が立ち昇るのが見えた。各家庭で夕食の準備をする時間帯だった。同級の男子生… 続きを読む
思い出の街角 昭和48年 栄町商店街 昭和48年、『三菱購買会』の前から撮影した写真。写真左に7軒の商店が軒を連ねている。写真右側、空き地の向こうが『ツバメ電気商会』。 7軒の店名は、昭和46年頃の地図によると、手前から ・杉田履物店 ・森永牛乳販売店 ・小山商店 ・工藤商店 ・北島商店 ・宮森商店 ・高橋商店 と、な… 続きを読む
随想 YS11の町にて思う|柳川 傑 昭和37年(当時小5年)に、春日町から現在の愛知県三好町に家族そろって転居して来ました。 親父(故人)が、当時、大夕張炭鉱の労務の仕事をしていて、炭鉱離職者を引き連れ、農村地帯だった三好町が、工場誘致条例の第1号として誘致した、三菱の「YS11」プロペラ機の部品工場であった「三和金属」に転職して… 続きを読む
交通関係 地図式バス乗車券(三菱バス・夕鉄バス) 昔懐かしい地図式のバス乗車券 【奥山道紀】 バスの車内で車掌さんが鋏で乗車停留所、降車停留所、料金にパンチを入れて発行してくれました。 三菱バスと夕鉄バス、急行(特急)の夕張駅前や札幌行はこの地図式乗車券でした。… 続きを読む
昭和 1968年(昭和43年) 2月 8日、8時40分頃,奥部南1卸斜坑で事故殉職1。 28日、午後3時50分頃、奥部立入第2立坑でガス燃焼、殉職1、負傷15。3月 15日、『シューパロ』No.4 発刊(北海道夕張東高校郷土研究部機関誌)4月 1日、鹿島小第10代佐々木幸一校長。 奥鹿島分校教員定数2名となる。 鹿島中第8代… 続きを読む
思い出の記 汽車と競走した話|Kawauchi Masami 昭和40年ごろ、東京に旅行に行って速い電車に慣れて、大夕張鉄道に乗ったとき、遅くて 遅くて、なんだこれっと思ったものでした。清水沢〜遠幌間が、特に、遅かったと記憶しています。 小学校5年生の時、清水沢〜大夕張まで、汽車と24インチの自転車で競走した事が有りました。 いい戦いでした。 … 続きを読む
思い出ばなし 語り継がれた話|佐々木広行 もう27年前の事ですが、通学で毎日大夕張、清水沢間を、今では名前も忘れましたが、SLで通っていた頃のことです。 当時、私は、夕張南高校へ行っておりまして、毎日SLを利用していた訳なのですが、有る日、登校の時だったか、下校の時だったかは忘れましたが、いつものように、SLに乗っていました。 座席が… 続きを読む
大夕張の全景 昭和29年 富士見町 昭和29年頃 スキー場にはロープトゥもなく,栄町アパートなどの、ブロック住宅も未だ建設されていません。右手前にはスキー場中腹に立っていた小屋が見えています。… 続きを読む
大夕張の全景 昭和35年 富士見町 昭和35年頃、大夕張神社からの写真。こうしてみると、ブロックは建物の中で目立ちます。中でも、左の啓心寮の近くに見える白いブロックそばの道路の角に立つ木が、『夢の街-訪問記-僕と木』でふれた私的な思い出の木でした。 2006年に訪れた時の記事は、以下 https://ooyubari.com/20… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 「痛快ブック」と岳富町商店街の火事|高橋正朝 #3 私が鹿島東小学校3年生の春、明石町番外地の自宅の外で、寺田ヒロオのマンガ、「 背番号ゼロ 」を手にとっていた。 表紙に 「 新漫画党 」 と書かれ、黒丸の上から下に稲妻形のマークが入っている。 稲妻形と思ったのは、アルファベットの S の図案化だったのを後に知る。 つまり、「 新漫画党&… 続きを読む
映像 遥かなる思い出の故郷 以前、作者の方が1991年に大夕張を訪問した部分と合わせて動画を掲載しましたが、『遥かなる故郷の思い出』の大夕張全盛期の部分、11分間を掲載します。(製作1997年2月) https://youtu.be/DIVYZonq7oM 1991年に大夕張を訪問した記録が含まれる映像全編は、次のページから… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島東小学校 廊下 鹿島東小学校の校舎内廊下。手前に「野村学級」の学級札が見えます。野村芳郎先生は、昭和38年から昭和45年まで鹿島東小学校で教鞭をとられていました。その頃の校舎。… 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島小学校遠足 シューパロ川上流 鹿島小学校の遠足は、礦業所や、営林署のあたりを通って、官行と呼ばれる方面に行きました。シューパロ川に沿って、上流に向かいます。全校児童が長い列を作って、こんな光景が正に目の前にありました。そして、清流の流れる河原でお弁当を広げ、遊びました。全校児童1000人以上もいた時代でした。 … 続きを読む