河村先生 |千古のみどり

1735

 

 学校でお世話になった先生は、沢山いらっしゃいます。

 覚えていますか… 鹿島小学校の上の、小高い丘の上にあった『大夕張カトリック教会』を?

『人は何のために生まれ…そして死ぬのだろう…』


 あそこへ行ったら、教えてくれるかも知れない…


 そんな思いで教会の門を叩いたのは、私が小学生の頃でした。

 それから高校を卒業して大夕張を去るまで、近くに親戚付き合いの全くない私が、唯一いつでも黙って入っていける処が、この教会でした。


 そこで当時、こちらも私の大好きな西牟田神父様と共に、生涯独身を通され、ず~っと、地元の人達、子供達のお世話をしていたのが、河村郁子先生でした。


 今日で亡くなられて5年が経ちました。

 息を引き取られたのは、東京の病院でしたが、その直前、札幌の病院に入院されていた時(そのことも知りませんでした) ある朝、電話が掛かってきました。


 聴き取ることが難しいくらい、細く小さな声でした。


 聞き返すのが、とても申し訳なかったのですが、


『すみません、良く聞こえないのですが…』


『ごめんなさい…これが精一杯です…私はもう少しで死にます…大夕張時代の子供達に、お別れが云いたいので、連絡を取って下さい。…今、私は黄疸が強く、飛行機に乗れる状態ではありませんが、少しでも収まれば、東京に弟がいるので、そちらで死ななければなりません……。』


というものでした。


 時間がせまっていました。


 私は、仕事を持っていましたので、数日かけて、出社前と退社後に出来る限りの人に、事情を説明して、「もし行けたら行って、先生とお別れをして下さい。」と連絡しました。


 苦しい役割でした。


 今思うと、それが私に与えられた役割でした。そのことに深く感謝しています。

 後日、神父様のお話ですと、3日間で150人の人が (大夕張の人だけではありませんが) 先生にお別れを告げに行ったそうです。


 もちろん、私が知らせたのはそんなに多くの人ではありませんでした。


 危篤の人が150人の人と話をしたのです。

 その時大きな力が働いて、とても生き生きとされていたそうです。

 もしかしたら、このまま直るんじゃないかと思われた位だそうです。

 私は3度、病院へ足を運びましたが、いつも疲れ切って休まれていましたので、お話は出来ませんでした。


 ホスピスだったので本人の希望で会わせていたのですが、看護婦さんは、あまりの面会人の多さに、とても困惑していました。


 最後に行った時は、もう東京へ行かれました。という知らせでした。

 東京での現世のお別れの会での先生は、生前、神父様からいただいた白い司祭服を、お友達に頼んでウェディングドレスに仕立て直したのを準備され、


『最後にこれを着せてね…私はこれを着て、神様の処へお嫁に行きます…』


と云われたということです。


 そうして、先生の最後の希望の『ひつぎには、沢山の白い百合を入れてね…』
との言葉通りだったそうです。

 何故、突然我が家にパソコンが来たのか…


 何故、『IT講習』の申込用紙が、ある日会社の私の机の上にあったのか…


 ある日飯田さんのHPをのぞいたのか…


 (このHPには、先生の事を解ってくれる人が沢山いる)

 …すべては今日の日のためだったのでは…


 河村先生が、私の手を通して、飯田さんのHPを通して、皆さんに語りかけたかったのではなかったのか…


 あの時、お別れを云えなかった人達へ…たくさんの大夕張の先生の子供達へ…

 先生のお宅にあった、思い出のアルバムには、たくさんの大夕張の子供達が写っていました。

(2001年10月03日 記)



随想

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

アップロードファイルの最大サイズ: 5 MB。 画像, 音声, 動画, 文書, スプレッドシート, 対話型, テキスト, アーカイブ, コード, その他 をアップロードできます。 Youtube、Facebook、Twitter および他サービスへのリンクは自動的にコメント内に埋め込まれます。 ここにファイルをドロップ