私の母親は、下に3人の妹がおり、その下に弟がいた。 私には叔父になる。 叔父とはいっても私とは同い年であった。 ただし、彼は早生まれで私は遅生まれだから、学年は1年違った。 母親の父母、すなわち私の祖父母と末子である叔父が、明石町番外地の家で同居することになった。 私が…
「まゅゅ」さんの投稿写真。 今は亡きお祖母様がゲートボールをしていた頃の写真。 大会で3位に入賞したときの記念写真。 鹿島小学校のそば、土手の上にあった元テニスコート、昭和45年頃、自分が中学生だった頃、中体連の会場になっていたこともあった。 この写真は、1990年前後。 故郷の…
祖父のアルバムから。 大夕張山神社に向かう参道の入り口のあたりから、テニスコート越しに鹿島小学校グランドに夕鉄バスが乗り入れている。 写真の裏には、『昭和37年10月9日』のメモがある。 この日は火曜日のことであり、平日の学校のグランドにバスが停車していることを考えると、当時教職にあった祖父が鹿…
鹿島中学校校歌 昭和24年9月5日制定 (作詞)飯田広太郎 (作曲)横谷瑛司 原始の森の かげ深く 千古の緑 こるところ 自由の光 あこがれて 高くもかかぐ 柏葉の 校章は 鹿島中学校 今学園の れいめいに 若き命を たたえつつ 肩くみかわし 眉あげて 仰げば遠く そそりたつ 夕張の峯 …
鹿島小・鹿島東小に続く、『夕張東(鹿島)高校校歌(カラオケ風ver.)』。 作詞者の森才一は、夕張北高鹿島分校としては最後の卒業となる第6期生として昭和26年に同校を卒業した。 鹿島高校の校歌として制作され、校名の部分は、『鹿島高校』のちに『東高校』となった。 作曲は、鹿島小学校の校歌も作曲し…
鹿島小学校校歌 MP3音源(メロディ) 上の音源は、前奏、伴奏を省略したメロディ部分のみ。 鹿島小学校の校歌については、鹿島小学校発行の『鹿島のあゆみ』には次のようにかかれている。 昭和15年12月1日に制定されたと校歴に記されている。 加勢蔵太郎作詞、工藤富次郎作曲となっているが、『鹿島小…
『鹿島小学校校歌(カラオケ風ver.)』に続いて、鹿島東小学校校歌(カラオケ風ver,)です。 一番から三番までの歌詞を今までテキストでのせたことがなかったので、掲載しておきます。 鹿島小学校の伝統と力強さを感じる歌詞に比べて、鹿島の自然の中で育つ子どもたちの姿が親しみやすい歌詞です。 作詞…
しょっちゅう夢を見る人や、夢を見る回数が少ない人もいるだろう。 振り返ってみれば、私がしょっちゅう夢を見たのは、鹿島東小学校の、3年生から5年生ぐらいが多かった。 以前、何回か書いたことだが、寝ている最中、私は最低でも2回は小便にたった。 妹や弟たちは朝まで小便に起きることな…
MP3音源(メロディ) 鹿島中学校 校歌メロディ譜 『鹿島のあゆみ』所収 鹿島中学校の校歌伴奏演奏はこちらから https://ooyubari.com/2020/02/08/katyukoka/…
MP3音源 (メロディ) 鹿島東小学校 校歌メロディ譜 『鹿島のあゆみ』所収 鹿島東小学校の校歌伴奏演奏はこちらから https://ooyubari.com/2020/02/08/higasyokoka/…
平成8年(1996年)12月10日。 雪の中を神社に向かって人が歩いた細い一本の道が続いている。 静寂の中の三吉神社。 母、祖父母が千年町に住んでいたという投稿名「まゆゆ」さんが投稿された写真から。 神社の境内での参拝や祭り、隣につづく児童公園で遊んだことを覚えている人も多いだろう。 …
昭和40年頃、6月の山神祭。 神輿渡御行列の先頭。 山神社の参道入り口の門が後ろに見える。 お祭りの際、どのような順番で行列を組むのか、その仕来りなど良く知らないが、写真では先導するのは、神社の宮司と、山神社の氏子総代である礦業所関係の面々といったところだろうか。 背景には、テニスコートからスキ…
本州に来て暫く経ったある日、 『寒さに対する自分の感覚が、内地の人と多少違う』 ということに気がつきました。 内地の人は氷点下になると、全部「寒い」の一言になってしまって 「どのぐらい寒いのか(寒さの程度)」 をあまり区別していないようです。 私は、例えば氷点下5℃と氷点下20℃の違い…
色付きの夢を見たのは、鹿島東小学校4年生の初夏のころだったと思う。 1ヶ月ぐらいの間に2回見た。 それ以前も以後も色付きの夢は見ていない。 内容は2回ともほぼ同じである。 背中にマントをはおった私が空を飛んでいるのだ。 太陽は黄色。 空は青色。 マントは赤色。 身体の…
平成8年(1996年)12月10日の大夕張郵便局から商店街にかけて。 母、祖父母が千年町に住んでいたという投稿名「まゆゆ」さんが投稿された写真から。 まゆゆさんの投稿は、次のページのコメント欄から。 https://ooyubari.com/2020/01/30/s433titosema…
平成8年(1996年)12月10日の大夕張駅。 母、祖父母が千年町に住んでいたという投稿名「まゆゆ」さんが投稿された写真から。 冬の旧大夕張駅駅舎。 まゆゆさんの投稿は、次のページのコメント欄から。 https://ooyubari.com/2020/01/30/s433titosemati…
昭和15年(1940年)頃の大夕張の富士見町方面を撮影した写真に着色してカラー化した。 ここに見える啓心寮の住所を(其ノ一)で、3丁目と書いた。 先日、父の戸籍を見る機会があった。 それによると、昭和29年に結婚するまで住んでいた住所が「富士見町三区」と記載があった。 独身時代、啓心寮…
古書店で入手した絵葉書には、文面を墨で消したりしているものもあるが、この絵葉書には、幸いなことに、当時の文章がそのまま残っていた。 日常的な何気ない文章に、当時の大夕張での暮らしを感じる。 昭和15年(1940年)8月の葉書。 今から83年前の大夕張の生活。 樺太名好…
絵葉書の宛先の面には、昭和15年8月15日の消印がある。 タイトル通り、1940年頃の大夕張山神社から富士見町方面を俯瞰した写真。 タイトルに(其ノ一)とつけた。 これは絵葉書の本来のタイトルにはない。 この『山神社ヨリ富士見町社宅地帯ヲ眺ム』の絵葉書の記事を(其ノ一)から(其ノ三)…
昭和45年頃。 明石町は、シューパロ川に近い1丁目から順番に、明石町駅近くの15丁目まで炭鉱住宅がきれいに建ち並んでいた。 ここは、14丁目の住宅そば。明石町駅に近い住宅の一角。右手後ろに共同水道の小屋。 休日なのだろう、屋根には日の丸が掲げられている。何を食べているのだろうか、袋入りのアイ…