石炭小屋が家の前に建っていて、隣の空き地が畑でした。 キャベツに長い柄の柄杓というんでしょうか、肥掛けすると臭くってねえ。 部屋は3部屋だったような覚えがあって、奥には、4畳半くらいの一部屋を増築してました。 二階じゃないんですが、玄関を正面にみて左側に父が鶏小屋を増築しました。 毎日生む卵…
昭和43年頃、冬の栄町。 栄町2丁目と3丁目の間の通り。 後ろに炭砿病院。その向こうに礦業所のズリ山が写っている。 軒先に長い氷柱が下がるような寒さが続く日々の中で、ときおり訪れる穏やかな一日。 頬も凍らすような冷たい空気があたりを覆っているようだ。 白黒写真に着色した画像…
雪の多かった大夕張。今ではほとんど見ることの無くなった木製のスコップ。柄の長い「雪かき道具」 『ジョンバ』とよんでいた。 雪をのせる木の板は3方を板で囲み、雪が落ちないようになっていた。 サラサラ雪の北海道ならではの雪かき道具だったという。 それでも木製の『ジョンバ』は、それ自体けっこうな重…
どこにいっても 忘れないのは坂道です。 われらの学校生活を 象徴するように 曲がりくねっている 急ごうものならひどく息切れして 学校の白い壁の横まで 登り詰めた時 ふりかえると カブト虫の行列のように 行儀よく土にへばりついている 明石町の炭鉱住宅が見える 山の山の …
『懐かしき貯木場(南部)|大阪の小林』に掲載の写真4点のうち、一枚。 白黒写真に着色した画像 南部のこの場所はちょうど、旧南大夕張向かいの商店街から入ったところにあるということで、20年程前大夕張や保存会の活動で南部の客車を訪ねた際に、何度もたち寄って写真も撮った。 あらためて、今回20年ぶりに?G…
1999(平成11年)年8月27.28日 大夕張を訪ねて 父との二人旅となった今回の大夕張行き。 すでに殆どの建物が消滅してしまい、十数年ぶりの大夕張という父も、その変わり果てた街の様子にショックを受けていた様子でした。 今回、一番心配していた鹿島小学校校舎はまだ健在で、ホッとしましたが、窓ガラス…
「ふるさと大夕張2丁目3番地」で、初めて写真のカラー化に取り組んだ。 初めは、2020年2月、ここ「2丁目3番地」を開設した時に「カラーにするとなんだか雰囲気がちょっと違う」みたいなノリで、AIで写真を自動着色してくれるサイトを見つけ、そこでどんどん変換していった。違いがおもしろくて元の白黒写真と着…
昭和40年の夏、南部の貯木場の休憩所で休憩していたときの話です。 営林署員の材木の体積測定のチーム2,3人と私たち学生3人とがお菓子を食べながら雑談をしていました。 そのうち、いつも我々の世話をして下さっていたFさんが、 「小林君は大阪だね」 と訊ねられました。 「はい」 と私。 「大阪…
鹿島中学の卒業アルバムからの一コマ。 昭和45年(1970年)初秋。 鹿島中学前からの坂道を右手に折れ、暁橋の正面を右へ曲がり鹿島橋の方へと向かいます。ちょうどここは、暁橋の前に出てシューパロ川に沿って走っているところ。 白黒写真に着色した画像 常盤町。鹿島橋に向かって走る 鹿島中学校の通学路でもあ…
私が、鹿島東小学校4年生のときである。 新聞の4コママンガがある社会面に、小さな記事が載った。 〘 男性が頓服で自殺未遂 〙という記事であった。 この〘 頓服 〙という漢字が読めたのは、家にあった〘 置き薬り 〙の箱の中には、必ずあったものだったからだ。 ひらがな若しくはカ…
父のアルバムから。 昭和28年頃。映っている三人は、後に結婚する父と、母。一緒に映るのは薬局の看護師の前田さん。 父は炭砿病院の薬局で、母は、病院の経理で働いていた。 宝町に住んでいた母と前田さんは、子どもの頃から仲がよく、遊んだり、習い事にも一緒に通っていたという。 私にとっても懐かしい三人の姿で…
つぎは、2003年に書いた投稿から、書き出した文章です。 これまでもHP中の思い出に投稿されている小林俊治さんから 『昭和41~42年のテレビ番組』 と題して次のようなメールをいただきました。 『このころ、北海道の各炭鉱の事故をニュースで聞くたびに悪い情勢へ・・・・・高度経済成長の時代で、ふっと…
大夕張の冬 雪に覆われたズリ山 手前は、官行と呼ばれた工場地帯、貯木場のあったあたりから。 2002年頃2月…
昨年暮れに、スマトラ地震での津波でタイ近隣の島々が多大な被害があり、死者10万とも言われています。 昭和61年か、62年か、どちらの年だったか、夏の頃、鹿島小学校校庭で、二人の多分、65歳は過ぎていたと思われる 女性二人に話し掛けられました。 「終戦後、間もなく大夕張からペナン島に移住し暮らしていま…
昭和40年頃、富士見町6丁目の山から鹿島小学校方面をみる。 清水の遊び場 富士見町6丁目は住宅のどんづまり、礦業所のすぐそばという印象がある。住んでいた家の裏手には山が迫り、小学校低学年から中学年にかけて、春夏秋冬ここが遊び場だった時がある。 この写真の真ん中、住宅と山の境目に小さな坂が見える。 …
どうでもいいという話といえば、これはどうでもいい話なのですが、サイトを運営する者としての自分の記憶と記録のために書き留めておきたいと思います。 『ふるさと大夕張2丁目3番地』のアクセス数が、昨日の昼頃『1.311.036』となりました。 『ふるさと大夕張(1丁目1番地)』のカウンター…
昭和30年 八百五十のゲレンデ。 白黒写真に着色した画像 八百五十 【小笠原 憲】 1998年02月27日(金)16時47分10秒 お久しぶりです。 遠い昔の記憶によると(昭和35,6年)、八百五十は鹿島小の横の沢をどんどん登っていって、更に山に登って・・というようなところでした。 鹿島小の冬…
机! 鹿島小学校低学年の頃は、上から重い蓋を持ち上げて、中に道具を入れるタイプの机だった。 真っ黒で木肌がごつくて重い机。 しかも二人用ので、2人の席はしっかりつながっていた。 動かすのも、一人の力では無理で二人で一緒に動かした。 高学年の頃からか,上に蓋のついた机から、天板の下に道…
昭和48年(1973年)の三菱大夕張炭鉱閉山後、春日町をはじめ、弥生町、緑町等の従業員の炭鉱住宅は取り壊された。 住宅が取り壊されていく様子は、遙かなる思い出の故郷の10分47秒のあたりから数十秒間、映像の中でも映っているが、閉山後一気に取り壊し作業は進められていったことだろう。 平成9年に鹿島小学…