Masa

北海道夕張市鹿島1番地。昭和31年3月、大夕張生まれ。 昭和31年から、昭和46年まで、炭礦で繁栄する、自然豊かな街で幼少年期を過ごしました。中学校卒業、炭砿病院の薬剤師だった父が亡くなり、大夕張を離れました。昭和48年三菱大夕張炭礦が閉山になる2年前のことでした。 1996年に「ふるさと大夕張」を開設、運営。2019年12月より再起動しました。
野球あそび 楽しかった日々

野球あそび

 昭和40年頃  中学生達の頭も丸刈りが、そのころの『常識』だった。1965年、今から50年程まえのこと。   場所は、栄町のブロック横だろうか。  おそらく、この写真の右手には、富士見町の山からわき出る沢水の流水溝が『理容フレンド』の横を通り、栄町の大きな通りの下を潜って、栄町のあたりでまた顔を出…
地図に引かれた一本の線 昭和37年「石狩鹿島」 2丁目3番地

地図に引かれた一本の線 昭和37年「石狩鹿島」

    よく見て欲しい。この地図には、南部二股、大夕張ダムの位置に一本の線で書き込みがある。  昭和37年発行の地図だから、当然まだ大夕張ダム完成以前の地図である。    今から20年以上前、「ふるさと大夕張」で活用をと、ある方から手渡された地図だった。       この地図の持ち主であるJUNさん…
桜組野球チーム |Kawauchi Masami 思い出の記

桜組野球チーム |Kawauchi Masami

昭和40年、鹿島小学校グラウンド、バックネット前 白黒写真に着色した画像 私は前列中央   バックネットの後ろにテニスコート、スキー場、富士見町の住宅がみえる。    私達、鹿島小学校、桜組は野球部が有りました。  1軍と2軍がありまして、鹿島東小学校の選抜チームと試合をするのに、東小学校まで行きま…
雨上がりの購買会栄町支所 思い出の街角

雨上がりの購買会栄町支所

 昭和45年頃、購買会栄町支所。栄町の購買会。  写真は、栄町アパート前から。  この通りの先を行くと、炭砿病院、礦業所方面。  購買会の向こうに見える富士見町の四軒入ったブロックは、『炭砿病院前』の頁で、シズコちゃんと一緒に父に写真を撮ってもらった場所だ。    冬になると,この通りの道の両側には…
汽笛の目覚まし|今井和弘 思い出ばなし

汽笛の目覚まし|今井和弘

 私は、昭和38年2月に、富士見町5丁目48番で生まれました。  その後、富士見町4丁目1番、富士見町1丁目13番と引越しをして、昭和47年5月に、ふるさと大夕張を後にすることになりました。  その9年あまりの間、思い出は星の数ほどありますが、ここでは4丁目の家での思い出について書きたいと思います。…
夏の子どもプール 楽しかった日々

夏の子どもプール

 昭和39年夏。  健保会館そばには、花壇で彩られた広い前庭。そして大小二つのプールがあった。 「大人用プール」と「子ども用プール」。    富士見町線路側には、大人用があり、こちらの栄町ブロック側には、子供用があった。  深さも、せいぜいちいさな子どもの腰あたりまでしかない、浅いプールだった。  …
バス停 |夕輝文敏 夕輝文敏

バス停 |夕輝文敏

 そこには、寝息を立てて横たわっている七二歳の父がいた。  ここが病院のベッドでなければ、まるで安らかに睡眠をとっているかのようであった。  屈強な体で、かつて石炭を掘り続けていた父が、今は病院のベッドの上で生死の境を彷徨っていた。      今朝方、父はスキー場の倉庫で意識不明の状態で発見された。…
シューパロ川上流 川遊び 楽しかった日々

シューパロ川上流 川遊び

   礦業所以北の官行、シューパロ川上流地域では浅瀬で河原も多く、絶好の川遊びの場所になっていました。ウグイやフナ、ヤツメウナギ、石の下に潜む水中生物を採集することができました。  網や、手拭いを使って、魚を掬いとろうとしているところのようです。 白黒写真に着色した画像   シューパロ川上流の水遊び…
5寸釘 その1 |高橋正朝 #50 続・大夕張つれづれ

5寸釘 その1 |高橋正朝 #50

 当時、5寸釘は貴重なものだったが、たいていの男児は、どこかで見つけたものを持っていた。  5寸釘を利用した簡単な遊びは『 釘刺し 』である。    それほど流行した遊びではなかったが、私の年代の小学校低学年の男児は、わりとよくやっていた。 しかし、女児は、その遊びをしているのを、私は見たことがない…
昭和29年7月稚児祭 細川新聞店前 街の行事

昭和29年7月稚児祭 細川新聞店前

 昭和29年7月18日の稚児祭。  明治43年(1910年)生まれの私の祖母と昭和21年(1946年)生れ、当時8才だった叔母の姿も写っている。  場所は千年町の細川新聞店前。  写真には、色鮮やかな着物や被り物で着飾った子どもたちを中心に、法衣姿の住職さんや、世話役、親御さんらしき人々の姿が見える…
大夕張の想い出 | 早坂治敏 思い出ばなし

大夕張の想い出 | 早坂治敏

 自己紹介:昭和26年に生まれて、ずーっと弥生町に住んでました。  鹿島小学校に昭和33年度入学。昭和38年度卒業。  鹿島中学校に昭和39年度入学。父の転居で昭和39年10月17日に大夕張を離れる。  以上が、私が生まれて13年余過ごした大夕張時代です。   小学校時代の恩師の名前は今も記憶してい…
父の無念と別れ |森田伸一 随想

父の無念と別れ |森田伸一

 私は昭和37年大夕張の栄町で生まれました。  その後、春日町に引越し、小学校3年生まで大夕張に住んでいました。  今は、山梨県に住んでいます。   閉山を前に炭坑夫の父は、右目に重傷を負い失明してしまい、炭坑夫の生命を絶たれてしまいました。   鹿島を断腸の思いで、離れることになったのです。   …
加川写真館 思い出の街角

加川写真館

 昭和50年代に撮影された加川写真館(岳富町)。  加川写真館と、左手、隣にあった八幡商店との暗い小道を行くと、奥に古物商があり、宝沢のトンネルの側を通って、春日町や、宝町に行く坂道にでることができた。(道(春日町~宝町)参照)    建物は、この写真では、いささかくたびれた感は否めないが、昭和40…
営林署官舎 | 片山利明 思い出ばなし

営林署官舎 | 片山利明

千年町の営林署官舎位置(赤枠)   私の父は営林署に勤務しており、私も昭和43年ころ、千年町の官舎に住んでいました。(父の弟は、鹿島東小の教師でした)  私は、昭和38年生まれで、幼稚園から小3まで大夕張に住んでいました。    5年程前に鹿島東小(3年で転校しましたが)の跡地をみて、もの悲しい思い…
湖畔の列車 運んだ、石炭を人を

湖畔の列車

シューパロ湖畔を行く、『No.5』のプレートをつけた9600型蒸気機関車。 噴上げる白煙で後ろの木々も霞む。 まだ湖畔の道路は未舗装のまま。 昭和45年頃だろうか? 白黒写真に着色した画像 シューパロ湖畔をNo.5の引く混合列車が走る…
こころにある故郷|長屋敏子 随想

こころにある故郷|長屋敏子

『林鉄』(りんてつ)の名前が、載っておりました。  今は亡き父母の言葉に出あったように、懐かしい言葉の響きがあります。  ちなみに母は、千年町で『喜多乃屋』の屋号で、そば屋を営んでおりました。  今も年に一度、何も無い家の跡地を訪ねます。   昭和25年頃から48年頃までの思い出が、心に刻まれており…
桜荘の女の子 楽しかった日々

桜荘の女の子

 昭和43年頃、千年町の桜荘前にて。  女の子乗っている自転車も当時流行りはじめた子供用の自転車。  男の子の『坊ちゃん刈り』に対する女の子の『わかめちゃんカット』。  当時の子どもたちはみんな同じ髪型でした。  ちなみにお母さんたちは、みんな『サザエさんパーマ』でしたね。 白黒写真に着色した画像 …