あらかると

大夕張のむかし・歴史のひとこま・エピソードなどを紹介

大夕張 歴史・文化遺産物位置図 あらかると

大夕張 歴史・文化遺産物位置図

 平成9年(1997年)における大夕張にあった碑などの他橋梁など産業遺産を含めて位置を示した図。    鹿島眺望公園に今は10の碑が残る。  もともとの場所に一番近い場所にあるものは、「夕張東高等学校記念塔」ということになる。東高跡地なのだから当たり前だが・・・。  鹿島この位置図に載ったもののうち…
白銀橋落橋事故 昭和43年11月 あらかると

白銀橋落橋事故 昭和43年11月

  最初にこのページをどこのカテゴリーに入れたらよいのか、迷った。 当時、運転手だった方がお一人亡くなられているから、「思い出の街角」にというのもちょっとどうかなと・・・・。 そこで、『備忘録-あらかると』というエピソード的なところへ収めることにします。     下の資料は、「白銀橋が永久橋に」とい…
電気が通った日~奥鹿島の電化~ あらかると

電気が通った日~奥鹿島の電化~

 昭和25年に鹿島開拓団12戸が入植し,開拓の第一歩が記された奥鹿島。  その後,鹿島開拓団は昭和30年に開墾の70パーセントを終了し,農地が国から売却された。   一方,大夕張ダム建設により水没する桜ヶ丘開拓団も、昭和30年に3戸、昭和31年に5戸、奥鹿島に入植した。   そして,昭和33年に、大…
各町で人口が多かったのは? あらかると

各町で人口が多かったのは?

 大夕張の人口が南部地区と合わせて23751人という記録が残っているのが、昭和35年のこと。  その時が大夕張の人口のピーク。  南部地区をのぞいても、18659人だった。  もっとも鹿島地区だけでみると、昭和30年の18778人という数字もある。  国勢調査のデータやら、住民基本台帳の数字やらで、…
大夕張炭礦停車場付近(其の一) あらかると

大夕張炭礦停車場付近(其の一)

 当時の夕張を紹介した、大正7年(1918年)発行の『夕張』(小林近江堂発行)という書籍から。  場所は、現在の『三菱大夕張鉄道保存車両』付近。     大夕張炭礦は、三菱礦山合資会社の経営に係り、現在700の鉱夫を使用して年10余万トンの石炭を出す。 炭質すこぶる良好にして瓦斯、骸炭(コークス)等…
大夕張の商店街 その1 あらかると

大夕張の商店街 その1

【南部の商業地】  南部が『大夕張』で、大夕張が『北部大夕張』とよばれた明治から大正にかけての時代。  南部の大夕張炭炭坑に労働者が集まると同時に商売をする人たちも集まってきた。  その頃の話から始まる。      明治39年(1906年)、大夕張炭坑が開坑すると同時に、多数の労働者が入り込んだ。 …
鹿島東小の誕生 1951年  あらかると

鹿島東小の誕生 1951年 

 終戦直後の国策である石炭増産により、鹿島の人口は急増し、鹿島小学校の児童数は増加の一途をたどった。  大夕張の町も、昭和14年以降、錦・宝・春日の各町が新設され、更に第一農場(明石町駅付近)、第二農場(桜ヶ丘付近)を含めた明石町、常盤町が昭和23年~25年にかけて開町するに及んで、学級数は40をこ…
三菱大夕張礦業所 歴代所長 あらかると

三菱大夕張礦業所 歴代所長

昭和2年から昭和44年三菱大夕張炭礦株式会社分離独立まで 勝俣 英(昭和2年6月10日~昭和7年6月15日) 西原民平(昭和7年6月16日~昭和10年5月9日) 蒔田三雄(昭和10年5月10日~昭和12年2月28日) 後藤太郎(昭和12年3月1日~昭和15年2月11日) 立花範治(昭和15年2月12…
戦後の大夕張炭鉱鉱員住宅 あらかると

戦後の大夕張炭鉱鉱員住宅

 戦後、石炭産業で働く人が増えることに応じて、春日町(昭和23年)、常盤町(昭和25年)に、新しい街ができた。春日町の住宅は、一棟2戸の内水道内便所で、部屋も六畳間が三つと妻帯者を中心に入居したという。    町外れの荒れ地に新しく炭鉱住宅が建設された。  その建設を担った大林組の社史に、記述がある…
三菱大夕張高等家政学校 あらかると

三菱大夕張高等家政学校

三菱大夕張高等家政学校は、昭和21年7月1日創立。   三菱大夕張礦業所では、従業員子女の教育を重視して、大夕張学園女子家政塾として昼夜の授業をおこなった。   160名収容、本科2年、専修科1年、毎年70名から80名の卒業者をだした。 栄町3丁目18番に幼稚園と同居していた。 家政一般学を教授し、…
ICAコンサルタント あらかると

ICAコンサルタント

   1977年に、大夕張カトリック教会跡地に世界的な組織であるICA(地域人間開発計画のメンバー)が入山。  地元の開発対策委員会の協力によって、一週間にわたる開発会議がもたれた。    外国人約100人をまじえ、コンサルタントたちが、世界での23に及ぶ実績の上に立って様々なプログラムが討議された…
昭和48年 閉山直前の大夕張の商店 あらかると

昭和48年 閉山直前の大夕張の商店

商店名は、『夕張市史(S56)』『鹿島のあゆみ』に、掲載されていたもの。これらに住宅地図や、写真にうつる看板、記事などから、町内名をつけて記載。   1973年(昭和48年)夏に大夕張炭鉱が閉山されと、大部分が移転を余儀なくされた。その一部は南部青葉町に新しい商店街を形成した。 閉山直後は、約4分の…
大夕張鉄道 沢と橋(山史から) あらかると

大夕張鉄道 沢と橋(山史から)

1号の沢鶯     沢2号の沢吉  野  沢3号の沢五 十 鈴 沢4号の沢香  椎  沢8号の沢明  石  沢5号の沢旭     沢6号の沢竜  田  沢7号の沢宝     沢名  取  沢初  音  沢昭和2年11月4日名称を付す  明石沢は、当初暗渠布設の予定だったが、これを橋梁に変更したため、…
生協のたんじょう 1953  あらかると

生協のたんじょう 1953 

1953年(昭和28年)4月1日、準備委員会が発足し、6月7日、生活共同組合創立総会が開かれた。 そして、駅前の旧明倫寮前に仮事務所を定め、その年の夏、8月11日から店開きをした。 写真は、その当時の様子。 6坪の広さで開業後、翌、昭和29年8月には98坪、昭和36年10月には314坪と、拡大発展し…
逃 亡 あらかると

逃 亡

大夕張が、まだ南部だったころの大夕張炭坑の時代。   明治末期、日露戦争後、日本の経済は大不況に陥り、炭鉱の経営も苦しくなった。 炭坑夫 の中にも、重労働から逃れて他の職を求めたり、少しでも景気のいいヤマにいこうとするものがいた。 他のヤマからの引き抜きもあったという。 飯場制度の下にあった 炭坑夫…
千年町に入った 指定商たち あらかると

千年町に入った 指定商たち

 南大夕張から新鉱を開いた北部に移転するのに伴い、それまで南部で営業していた商店が、大夕張に移転してきた。  三菱礦業所が、鉱業用地の一部を区割りして、1戸当たり間口4間、奥行き12間という広さで、営業地及び営業種別を指定した。  一商店あたり、三戸分まで借地でき、地代は坪あたり6銭3厘だっという。…
大夕張鉄道敷設案 あらかると

大夕張鉄道敷設案

 昭和4年の(北部)大夕張開鉱以前、北部大夕張の炭田の有望なことが明らかになり3本の専用鉄道敷設案が検討された。 大正7年(1918年)  7月、三菱鉱業が北部大夕張(鹿島)を調査し始める。  北部開発第1次案として『北部大夕張-万字間』鉄道調査。  万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂…
三菱、大夕張炭坑買収のころ あらかると

三菱、大夕張炭坑買収のころ

 手元に昭和41年8月1日発行の大夕張炭鉱労働組合『二十年史』がある。労働組合が記述した労働者の歴史、とはいってもかたぐるしくなく、読み物としても面白い記述が多い。時代の雰囲気や、様子がわかる部分を抜き書きしながら、ここに書き留めていきたい。    以下は、明治末期、資本参加していた三菱が、大正五年…