回想・随筆

日々生活の中で、ふと、あの日、あの頃を思い出す。ふと書き留めてみた過去の出来事、思い。

猫とブルドック|林 恭子 思い出ばなし

猫とブルドック|林 恭子

 岳富町の写真とても懐かしく拝見しました。   私は昭和37年に炭砿病院で生まれ、昭和45年まで大夕張に住んでいました。   千年町に住んでいたので、大夕張駅に卵を買いに行く時、必ず岳富町の道路を通ってました。  あの頃、駅の待合室に卵売りのおじさんがいました。     岳富町の時計屋さんのショーウ…
故郷大夕張 |西村武博 随想

故郷大夕張 |西村武博

 1998年の夏  私は、道内なのでこの夏に暇がある時に何度か大夕張へ足を運びました。行く度に感じたことは、懐かしいという感情と、寂しいという感情の入り交じったものです。   大袈裟に言うと、ここでの生活は何だったのだろうかと考えてしまいます。  冬は極度に寒くどっさり降る雪。  家の裏側は、除雪を…
サッカーボールの思い出|成松泰彦 思い出ばなし

サッカーボールの思い出|成松泰彦

 中学3年の修学旅行が終わってすぐに転校する事を知っていたが、友人には知らせていなかった。  6月の事だった。  そんな当の本人も、転校の事を知らされたのは、わずか2週間ほど前の事で、心の準備がいた。    何か自分の思い出を残していきたかった。     休み時間になると中庭で、男子も女子も輪になっ…
蓄電池の硫酸|高橋正朝 #54 続・大夕張つれづれ

蓄電池の硫酸|高橋正朝 #54

 私が、鹿島東小学校4年生の初夏のころ、学校から帰ったら、玄関に見馴れないものがあった。  蓄電池である。  父親は、すでにオートバイを持っていたが、玄関にあった蓄電池は、そのオートバイ用ではなかった。  その蓄電池は、自動車用で、誰かから充電を依頼されたもので、我が家で充電している最中だった。  …
故郷との邂逅  |  野口美代子 随想

故郷との邂逅 | 野口美代子

 先週の13日、会社の昼休みにインターネットで遊んでいましたら、偶然、ここを拝見させていただきました。  昭和24年大夕張栄町生まれ、鹿島小学校・鹿島中学校・夕張東高4期卒業、そして上京。  閉山の昭和48年まで両親は栄町に住んでいました。   私は、昭和43年に夕張東高校を卒業して上京、そのまま東…
快い響き|池田憲治 随想

快い響き|池田憲治

 ”大夕張”(おおゆうばり) それは私のように遠く離れている者には、すごく快い響きの単語です。    私は、樺太真岡の鉄道官舎で生まれました。 「九人の乙女」の内の一人伊藤千枝は親類です。  今、私は愛知に住んでいますが、近くに住んでいる叔母は、私の家族と共に移転するまでは、樺太真岡の郵便局に勤めて…
シューパロ川の灯籠流し|小野美音子 思い出ばなし

シューパロ川の灯籠流し|小野美音子

    お盆も過ぎシューパロ川に秋風が吹く頃となりました。  彼岸を渡った魂は、忘れ去られることを寂しがると聞きます。  私には麻疹の予防注射がもとで、赤ん坊の時に亡くなった兄がおり、毎年、妙法寺の灯籠流しに、参加しました。    まだ日の明るいうち、妙法寺には沢山の檀家の人々が集まり、お上人さんを…
位牌堂(地蔵堂)|内川准一 随想

位牌堂(地蔵堂)|内川准一

 建物が無くなったはずの大夕張に、この春(2002年)まで、実はひとつの建物があった。  千歳町の火葬場に至る道路脇にあった位牌堂(地蔵堂)だ。    あったと言うのは、この春、雪の重みで倒壊してしまったから・・・    中に納められていた位牌2千7百は、散乱しないよう4体の地蔵と一緒に倒れた建物ご…
乾電池 その2  |  高橋正朝  #53 続・大夕張つれづれ

乾電池 その2  | 高橋正朝 #53

    私が、鹿島東小学校4年生のときである。  シタジキをこすって静電気を起こし、細かく裂いたチリ紙をくっつけてみたり、同級生の頭の上にかざして、髪の毛を逆立てたりして、遊んでいた。       当時のクラスの男児の多数は坊主頭である。  25人ぐらいいたクラスの男児のなかで、坊ちゃん刈…
緑町浴場帰りの兄 |小野美音子 随想

緑町浴場帰りの兄 |小野美音子

   「宝の沢探検」を愛した私の兄、伸也は、大人になっても仲間と川上りで秘境の滝を再発見し、日本の滝百選に応募し選ばれたり、アラスカに行き、ローカルな新聞やTVに出て、母を喜ばせる、ゴッツい山親爺になりました。   そのコワモテの風貌は、新聞屋の親戚の役にも立ち、お金を払わない客の家の玄関に、兄がヌ…
煙草の話|Kawauchi Masami 思い出の記

煙草の話|Kawauchi Masami

   大夕張の職人さんは殆どくわえタバコでしたね。   一つのファッションでした。  工場内は、煙草吸ってましたし、今、思い出しても、煙草を吸っていない男の人いませんでしたね。  禁煙の記憶有りません。   南大夕張は、進発所に電気コンロが置いて有って、煙草に火をつける人もいました。  でも殆どの人…
学のある話 |丸山直記 随想

学のある話 |丸山直記

 子供のころから私はクラシック音楽が好きでした。  今でもオーケストラでチェロを弾いています。  あのころ大夕張ではチェロなぞ目にすることもなかったので感慨深いものがあります。  そう言えば、中学校の音楽の先生で、上村先生がヴァイオリンを弾かれ、教えていたのを覚えています。  上村先生はその後、札幌…
子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子 思い出ばなし

子亡き夫婦のある日の哀と安堵 | 小野美音子

 子供を失った母は、父の出勤後、昔風の舅と狭い家に一緒にいるのを辛く思う時があり、映画館に行ったことがありました。    気兼ねなく涙を流せたからです。    しかしそれも舅の意に染まず、母は妙法寺へ向かいました。   裏からそっと納骨堂に入り、亡き子の骨と共に一夜を明かしました。    父は、夜通…
乾電池 その1|高橋正朝 #52 続・大夕張つれづれ

乾電池 その1|高橋正朝 #52

 この投稿を書き始めたとき、我々の年代が、子どものころのナショナルとサンヨーのロゴマークを貼り付けましたが、結論として、それらのロゴマークの貼り付けをやめました。       理由は、ロゴマークにも著作権があるからです。  著作権の例外使用からすると、『 ふるさと大夕張 』のようなものの記事のなかで…
七夕の思い出|工藤 央 随想

七夕の思い出|工藤 央

 明石町に昭和45年6歳時まで過ごしていた工藤と申します。  父は夕張東高の教師をしており、校門脇の教員住宅に住んでおりました。    夏場にはバレー部の顧問をしていたため、よく生徒の方が合宿といってうちに泊まりこんでいたのを覚えています。    さて七夕の思い出といえば、明石橋の上から使命を終えた…
あの町が |ヤス 随想

あの町が |ヤス

あの町が忘れられません。 初恋。 今でも覚えてます。久保田美枝さん。   間もなく人生の終わり? ・・・・大夕張を出てから何年過ぎたかな?   今でも鮮明に覚えてますよ。   自分は今では、女房、子供、孫まで居ますが、 貴女は?元気でしょうか? 多分この掲示板には気がつきませんよね?   達者なら何…
湯浅先生 エピソード|Kawauchi Masami 思い出の記

湯浅先生 エピソード|Kawauchi Masami

 担任していた桜組の野球チームまで作った湯浅先生 面白い先生でした。『湯浅純治先生のこと』のところでも紹介しましたが、その他のことも思い出したので、書きたいと思います。    授業中、私には難題の算数を、黒板で解くと、 「カワズ、体育館見てこい」と、言われ、見て来て、「空いてる」と 伝えると、 ご褒…
5寸釘 その2|高橋正朝 #51 続・大夕張つれづれ

5寸釘 その2|高橋正朝 #51

 私が、鹿島東小学校の3年生のとき、誰に教わったのか覚えていないが、5寸釘とエナメル線を利用して、電磁石をつくったことがあった。       この電磁石をつくる遊びは、私の周囲では男児だけだった。  ただ、この遊びは、学校の教室でするよりも、各自が家に帰ってするのが普通で、遊びといっても、簡単にでき…
桜組野球チーム |Kawauchi Masami 思い出の記

桜組野球チーム |Kawauchi Masami

昭和40年、鹿島小学校グラウンド、バックネット前 白黒写真に着色した画像 私は前列中央   バックネットの後ろにテニスコート、スキー場、富士見町の住宅がみえる。    私達、鹿島小学校、桜組は野球部が有りました。  1軍と2軍がありまして、鹿島東小学校の選抜チームと試合をするのに、東小学校まで行きま…
汽笛の目覚まし|今井和弘 思い出ばなし

汽笛の目覚まし|今井和弘

 私は、昭和38年2月に、富士見町5丁目48番で生まれました。  その後、富士見町4丁目1番、富士見町1丁目13番と引越しをして、昭和47年5月に、ふるさと大夕張を後にすることになりました。  その9年あまりの間、思い出は星の数ほどありますが、ここでは4丁目の家での思い出について書きたいと思います。…