回想・随筆

日々生活の中で、ふと、あの日、あの頃を思い出す。ふと書き留めてみた過去の出来事、思い。

鹿島小学校39期卒業生(菊組)|小林俊治 随想

鹿島小学校39期卒業生(菊組)|小林俊治

 私は、鹿島小39期生です。昭和42年卒業です。  当時、春日町45番地にいました。(詰所のそば)   担任は、久々湊先生でした。   私事で恐縮ですが、わんぱくであったため、よくゲンコツされました。  父親のようなどっしりとした存在感のある先生でした。    冬の昼休み、教室の窓から、外に積もった…
苛性ソーダと石けん その2 |高橋正朝 #57 続・大夕張つれづれ

苛性ソーダと石けん その2 |高橋正朝 #57

 鹿島東小学校の高学年のときの、授業で石けんをつくることが中止になったことは、前回書いた。     テレビで、石原裕次郎の撮影所での行動が映された番組があった。  撮影が終わった後、裕次郎が、風呂場で、髪の毛を固形石けんで洗っていた。 我々が子どもの時分は、髪の毛を洗うときも、普通の固形石けんだった…
訪れてみたい|野崎昭雄 随想

訪れてみたい|野崎昭雄

 私は、昭和26年4月から昭和33年3月まで、小学校2年生から中学校1年生までを鹿島小学校、鹿島中学校で学び過ごしました。  住んでいたところは、春日町、富士見町、千歳町、そして緑ヶ丘(小学校の上)でした。  思い出深い街です。  小学校には小熊先生、林先生、尾崎先生、熊谷先生と特色ある先生が、教鞭…
名古屋から愛をこめて |二木 晃 随想

名古屋から愛をこめて |二木 晃

 昭和十三年生まれ、鹿島中学校卒七期生です。  パソコンをいじっていて、傲然、大夕張のホームページを見つけました。本当に懐かしく、ドキドキしながら、すべてのコーナーを拝見しましたが、皆さん、若い方ばかりの投稿で、ちょっと寂しい気がしないでもありません。  六十歳を過ぎたものには、パソコンはむりなので…
坂本弁護士の奥様について|乗田功一 随想

坂本弁護士の奥様について|乗田功一

 オウム事件で坂本弁護士一家が犠牲となるという忌まわしい事件からちょうど9年ということですが、弁護士の瀧澤秀俊さんが、この事件をテーマにしたHPを立ちあげています。   坂本弁護士一家殺害事件 5年10ヶ月の軌跡 (dti.ne.jp)    その中で「都子さんへの追悼文集」というページに、18年前…
苛性ソーダと石けん その1|高橋正朝  #56 続・大夕張つれづれ

苛性ソーダと石けん その1|高橋正朝 #56

 私が鹿島東小学校の高学年だったあるとき、授業で、先生が、石けんを作ろうと言った。 理科の教科書に、石けんのことが出ていたからだ。      石けんの具体的な作り方が、教科書に載っていたわけではない。 油と苛性ソーダで作ると書かれていただけだったように思う。    油は皮膚につくとべとつくから、それ…
濃いめの味 |斎藤敏幸 思い出ばなし

濃いめの味 |斎藤敏幸

 長谷川さんの『食憶』にもありましたが、我家の味付けも塩分の多いものでした。   父は、採炭夫で先山をしていましたので、食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てられていました。   何を食べるにも、たっぷりめの醤油と、極めつきは、『味の素』の山です。   特にサケは「塩引き」といって、焼き上げても表…
父がつとめていたコークス場 |山本栄子 思い出ばなし

父がつとめていたコークス場 |山本栄子

   発電所の隣にあったコークス場。     私が高校生位の頃迄、父が勤めていました。  二交代の勤務制だったと思います。ある日、雨が降りだし、傘を持って線路沿いに歩いて行った記憶があります。    石油等が輸入されるようになり、コークスの需要が少なくなったせいで、井出組?さんに、渡すという件で、当…
緑の中の大夕張駅 | 野口美代子 思い出ばなし

緑の中の大夕張駅 | 野口美代子

 懐かしの写真の中に、大夕張駅を見て本当に帰って来たと思いました。   停車場(昔私が子供の頃、年寄達は駅のことをこうとも呼んでいた気がします)は人を見送って、見送られ、又会っての繰り返しの場でした。  大夕張駅は、ただただ別れの駅になってしまいました。   札幌へのバスが通るようになって、バス停が…
北海道言葉と食べ方の話題|佐々木洋子 随想

北海道言葉と食べ方の話題|佐々木洋子

 私の住んでいる君津には、たくさんの大夕張出身者がいると思います。  引っ越しした当時は、同じ団地に住んでいました。  皆 家を建ててバラバラですけど・・・      さて、北海道方言と言えばたくさんありますが『うるかす』(つける・ひたす)は、標準語だと思っていました。  10数年前に、千葉県人に指…
東小向こう岸のアンモナイト化石 |  小林光志 思い出ばなし

東小向こう岸のアンモナイト化石 | 小林光志

 昭和35年ころ(私が中学1年)、毎日、春日町から鹿島中学校まで登校していましたが、時々悪がき仲間と通学路を離れて登校しました。  春は、うど、夏はスイカ、秋は大根人参などずいぶんご馳走になりました。    シューパロ川に沿って、行くこともありました。特に便所場球場から下流は、川沿いに道のないところ…
昭和47年 宝町3丁目の炭砿住宅と妻|Kawauchi Masami 思い出の記

昭和47年 宝町3丁目の炭砿住宅と妻|Kawauchi Masami

白黒写真に着色した画像   宝町3丁目の炭砿住宅。妻と姉。  向かって左で犬を抱いているのが妻で、赤ん坊を抱っこしているのが、妻の姉、そして近所のおじさんです。  妻は、北菱閉山で大夕張に来て、大夕張閉山で登川にいきました。昭和47年(1972年)ぐらいに大夕張に来て、75年には登川に行っています。…
pH ( ペーハー ) | 高橋正朝 #55 続・大夕張つれづれ

pH ( ペーハー ) | 高橋正朝 #55

     鹿島中学校2年生の理科の授業で、水の電気分解が実施された。  窓の外の木々は、まだ緑の葉をつけていたので、2学期になって間もないころだったと思う。  理科の担当は、デンスケと生徒たちが勝手にアダ名した、大宮六郎 先生だった。  私たち K 組の担任でもあった。…
猫とブルドック|林 恭子 思い出ばなし

猫とブルドック|林 恭子

 岳富町の写真とても懐かしく拝見しました。   私は昭和37年に炭砿病院で生まれ、昭和45年まで大夕張に住んでいました。   千年町に住んでいたので、大夕張駅に卵を買いに行く時、必ず岳富町の道路を通ってました。  あの頃、駅の待合室に卵売りのおじさんがいました。     岳富町の時計屋さんのショーウ…
故郷大夕張 |西村武博 随想

故郷大夕張 |西村武博

 1998年の夏  私は、道内なのでこの夏に暇がある時に何度か大夕張へ足を運びました。行く度に感じたことは、懐かしいという感情と、寂しいという感情の入り交じったものです。   大袈裟に言うと、ここでの生活は何だったのだろうかと考えてしまいます。  冬は極度に寒くどっさり降る雪。  家の裏側は、除雪を…
サッカーボールの思い出|成松泰彦 思い出ばなし

サッカーボールの思い出|成松泰彦

 中学3年の修学旅行が終わってすぐに転校する事を知っていたが、友人には知らせていなかった。  6月の事だった。  そんな当の本人も、転校の事を知らされたのは、わずか2週間ほど前の事で、心の準備がいた。    何か自分の思い出を残していきたかった。     休み時間になると中庭で、男子も女子も輪になっ…
蓄電池の硫酸|高橋正朝 #54 続・大夕張つれづれ

蓄電池の硫酸|高橋正朝 #54

 私が、鹿島東小学校4年生の初夏のころ、学校から帰ったら、玄関に見馴れないものがあった。  蓄電池である。  父親は、すでにオートバイを持っていたが、玄関にあった蓄電池は、そのオートバイ用ではなかった。  その蓄電池は、自動車用で、誰かから充電を依頼されたもので、我が家で充電している最中だった。  …
故郷との邂逅  |  野口美代子 随想

故郷との邂逅 | 野口美代子

 先週の13日、会社の昼休みにインターネットで遊んでいましたら、偶然、ここを拝見させていただきました。  昭和24年大夕張栄町生まれ、鹿島小学校・鹿島中学校・夕張東高4期卒業、そして上京。  閉山の昭和48年まで両親は栄町に住んでいました。   私は、昭和43年に夕張東高校を卒業して上京、そのまま東…
快い響き|池田憲治 随想

快い響き|池田憲治

 ”大夕張”(おおゆうばり) それは私のように遠く離れている者には、すごく快い響きの単語です。    私は、樺太真岡の鉄道官舎で生まれました。 「九人の乙女」の内の一人伊藤千枝は親類です。  今、私は愛知に住んでいますが、近くに住んでいる叔母は、私の家族と共に移転するまでは、樺太真岡の郵便局に勤めて…
シューパロ川の灯籠流し|小野美音子 思い出ばなし

シューパロ川の灯籠流し|小野美音子

    お盆も過ぎシューパロ川に秋風が吹く頃となりました。  彼岸を渡った魂は、忘れ去られることを寂しがると聞きます。  私には麻疹の予防注射がもとで、赤ん坊の時に亡くなった兄がおり、毎年、妙法寺の灯籠流しに、参加しました。    まだ日の明るいうち、妙法寺には沢山の檀家の人々が集まり、お上人さんを…