楽しかった日々 男たち やや大仰なタイトルではありますが、当時の働く人の姿です。 仕事の合間だろうか。カメラに向ける顔。たくましさの中の笑顔がやさしい。 建物の蔭になるこんな場所は、春遅く4月5月まで雪が残っていた。 後ろにはまだたくさんの雪が残っている。 こういう場所は、一年中陽あたりが悪く、春には雪解… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 文部省推薦映画 | 高橋正朝 #31 前回、ディズニーのドキュメンタリー映画、『 白い荒野 』で、『 レミング 』の『 自殺 』のヤラセのことを書いた。 その際、やはり、ディズニーのドキュメンタリー映画、『 砂漠は生きている 』のことにも触れた。 両作品とも、日本での配給は、大映であることが、ウィキペディアに記載されている。… 続きを読む
思い出の街角 代々木アパート 昭和30年に代々木アパートは、完成しました。まだ完成後、間もない頃でしょうか。道路を挟んだ協和会館側から撮影された写真のようです。 二棟のうち、北側にたっていたアパートの様に見えます。ちょうど下で泊川さんが書いた『雪の城』は、このあたりに作られたものでしょうか。 町内掲示板のそばで男子高校生ら… 続きを読む
2丁目3番地 今さんの写真 備忘録という名のこのカテゴリー、『ふるさと大夕張2丁目3番地』の自分のための備忘録なんだけど、今日は、写真についての話題。 『ふるさと大夕張』にある写真、その中の60枚ほどが、今さんの写真です。 正確にいうと、「今雅秋さんという方が、お父様のアルバムから提供してくださった写真」です。2006年頃… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 宝沢の築堤を行く列車 白黒写真に着色した画像 宝沢の築堤を大夕張駅に方面に向かって行く列車。築堤の斜面に、泉町(錦町)から鹿島小学校に向かう小道が見える。 Masaさまブログ「煙の記憶」管理人の『海も好き』でございます。 この写真を撮ってる立ち位置は錦町だったでしょうか?SLが走る築堤の向こう側が宝町だったでしょうか?何… 続きを読む
思い出の街角 春日町住宅から坂の上の代々木町 昭和35年頃 春日町の北側の住宅地の一角だろうか。軒先で遊ぶ子は、兄弟なのか、ご近所さんなのか。年の離れた中学生と小学生のようです。そしてそれを見守る煙草をくわえているような姿のおじさん。 ご近所同士、兄弟を入れて、自然に、年齢の離れた小集団を組んで遊んでいたものでした。 よく見えませんが、何… 続きを読む
思い出の街角 春日町から代々木町 昭和30年頃 白黒写真に着色した画像 春日町から代々木町方面を見上げる。 以前、私はこの写真をみて上の住宅は弥生町だと思っていましたが、下の小林さんや阿部さんののコメントにあるように代々木町の住宅です。 そして、『春日町住宅から坂の上の代々木町』には、夏に撮影されたと思われる写真が掲載されてます… 続きを読む
食憶 食憶(食憶減退・風邪の味)|長谷川潤一 皆さま方、インフルなど召してはいませんでしょうか。 この時期になると思い出す「風邪」の味?私はいろいろあります。 蜂蜜、水飴、麦芽糖、サクマのドロップ、不二家ポップキャンディー、喉へのいたわりにレロレロと。 砂糖つき梅漬け、のりたま、江戸むらさき、お粥を少しでも食べるためにと。 おろし金の… 続きを読む
映像 大夕張小唄 昭和34年三菱大夕張礦業所選定歌。『炭鉱(ヤマ)に希望の花も咲く』と共にキングレコードよりレコード化。礦業所が地元住民と会社関係者の志気を高めるために製作し、住民に親しまれた。 『大夕張の歌』『大夕張音頭』ともよばれ、お祭りやお盆の時期、大勢の人が、歌い踊ったという。 大夕張ダムで働く開発局の… 続きを読む
食憶 食憶(その12 川原の鍋)|長谷川潤一 息子が楽しみにしていた樽前登山が都合で中止。 かわりに何かしようかということになり、先週、宿泊研修でカマド係りをバッチリやりこなしたという息子の腕前を確かめるため、思い出したのが「炊事遠足」。 炭火の焼き肉でもなく、海の幸ありのバーベQでもなく、もちろんおしゃれなアウトドアでもなくて、米、味噌… 続きを読む
思い出の街角 明石町駅 地下歩道 昭和40年頃 昭和33年11月4日、明石町駅に旅客用地下歩道が完成したという。 昭和35年に明石町の高台に鹿島高校(のちに夕張東高校)が建設された。 大夕張鉄道で通学し、この地下歩道で線路の下をくぐり、再び踏切で線路を渡り、高台にある高校を目指して坂道を登っていった高校生達も数多い。 白黒写真に着色… 続きを読む
思い出ばなし 子どもの記憶 |菅井宏史 長谷川さんが大夕張時代の「食憶」をお持ちのように(「食憶」シリーズいつも楽しく拝見してます)人それぞれ大夕張の、あるいは大夕張時代の一連の記憶というものがあるのかもしれません。 昭和30年代後半から、40年代前半が、私の大夕張の記憶の全てなのですが、あの時代の思い出といえば(これは大夕張の記憶… 続きを読む
楽しかった日々 窓が埋まって よいしょ 昭和37年ころ 大夕張の15年間、生れてから2回引越しした。 ここは、炭鉱病院の線路を挟んだ向かい側の、富士見町5丁目のあたりだと思う。ここで生れた。 雪が多く降った。昭和13年、7歳で沼の沢から大夕張に引越してきた母などは、「大夕張ダムができてから雪が多くなった。」と、よくいっていた。 … 続きを読む
思い出の記 子供用自転車が普及し始めた頃 | Kawauchi Masami 子供の頃の 遊びですが10〜15年毎に 調べると 随分 違うと思います。 私は4つ上の兄がいますが、「三輪車」持っていませんでした。 昭和37年ごろ、「子供用自転車」が無かったと思います。 その頃は、お父さん方の「黒いゴッツイ自転車」で、家の母親は自転車に、乗れませんでしたし、他のお母さん達… 続きを読む
続・大夕張つれづれ ディズニーのドキュメンタリー映画『 白い荒野 』 | 高橋正朝 #30 『続 • 大夕張つれづれ #28』 で、ディズニーのテレビ番組のドキュメンタリー映画のことを書いた。 ディズニーのドキュメンタリー映画として有名なものでは、2つ記憶がある。 ただし、2つとも、映画そのものを見たのか、それとも、映画も見て、且つ、その一部分を取り込んだテレビ番組をも見たものだ… 続きを読む
思い出の街角 栄町児童公園 昭和40年頃 正式には、『栄町児童公園』というのだそう。 健保会館、健保会館の庭、といった方がとおりはいいのかもしれない。 写真を見ながら、あの時、家庭から聞こえた夕餉の仕度の音を聞きながら、佇んでいた自分の姿を想像できるだろうか。 白黒写真に着色した画像 写真右、通りから、左の健保会館武徳殿… 続きを読む
思い出の街角 栄町アパートから 昭和30年代。最盛期の町。健保会館武徳殿の庭の様子が、よくわかります。そして、正面には、三菱大夕張幼稚園の玄関のある中央の建物と東西に伸びた立派な園舎全体が写っています。この頃は、この規模の園舎にさえ収容しきれなかったのか、私たちは、2部制の一日交替で幼稚園に通っていました。 奥には、園庭の一部… 続きを読む
楽しかった日々 八百五十のゲレンデ(2) 昭和30年 八百五十のゲレンデで。山の向こうに山、山がつらなる。 八百五十 【飯田雅人】(2021年3月12日) 私が過ごした大夕張に八百五十(はっぴゃくごじゅう)と呼ばれる山があった。 海抜850メートルの山だから八百五十とよばれている、と小さい頃から聞かされていた。 住む人たちには、山スキ… 続きを読む
思い出貼 八百五十のゲレンデ(4) 昭和30年 当時の、身長以上の長いスキー。 お腹に茶色の腹巻きをしめている。バカボンのパパがしていた腹巻きと同じ物。このころ自分は身につけた覚えはない。忘れてしまっただけなのかもしれないけれど。 スキーのブランドマークは当時よく見かけたような気がする。小樽にあったというアジアスキーだっただろうか… 続きを読む