訪問記 2000年 栄町からの夕張岳 2000年7月27日の印字。 住民が完全に立ち退きシューパロダム工事が始まろうとしていた頃の大夕張。 自由に大夕張の中に立ち入りできた残された、そのわずかな時間。 もうずっと前の訪問だが、その時の記憶によれば・・・・ 上の写真は、栄町3丁目のかつて浴場のあったあたりから代々木町の方… 続きを読む
2丁目3番地 鹿島小学校記念写真帖(記念アルバム) 昭和28年(1953年)に配付された鹿島小学校の25周年記念アムバム。 鹿島小学校、開校25周年を記念して作成された『昭和28年学校概要』には、行事予算として記念写真帖(記念アルバム)の項目が、とられている。 当時、5000円というとけっこう大きな金額である。 どれくらいの数が配… 続きを読む
閉山を迎える街 昭和48年の街 その7 大夕張神社からの風景。 大夕張駅構内。購買会裏、倉庫などの貨物、石炭置き場など、住民にとっての物流の拠点を中心に置かれた写真。 二枚の写真を合わせたため中心でわずかにズレが生じている。 拡大して閲覧できるように高解像度のまま掲載。 大夕張神社から https://ooyubari.com/2… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 北海道弁•••••• やばちい | 高橋正朝 #107 しばれる、しやっこい、めんこい、などの北海道弁は、東北地方がルーツの方言のせいか、使う使わないは別にして、全国的にはわりと知られている。 宮田輝が司会を務めた、ラジオ番組の、〘 3つの歌 〙や〘 のど自慢大会 〙で、参加者に、宮田輝が普通は標準語で、ときには会場があるその地方の方言で何… 続きを読む
楽しかった日々 開拓 苺畑でいちご狩り 『ふるさと大夕張(1丁目1番地』に2000年頃掲載した我が家のアルバムからの写真だ。その時も書いたが、この写真を見るといつも思い出すことがある。 昭和45年(1970年)鹿島中学3年の7月、日曜日。 炭砿病院に入院していた父が、久しぶりに家にもどってきていた。 父から、 『… 続きを読む
絵葉書 三菱大夕張礦業所 近代設備を誇る附属病院/病後を養う保養所 昭和15年(1940年)頃発行された絵葉書から。 「病後を養う保養所」 緑町、大夕張駅向かいにあった。 正面には広い芝生が植えられ、附属の温室もあった。 三菱礦業所の従業員の福利厚生のための施設。 「近代設備を誇る附属病院」 当時は正面は一階建で、後ろに一部二階建の部分が… 続きを読む
随想 ラジオ体操 全国中継 |石原賢治 まだまだ暑い日が続きます。 台風一過でほんのり秋の気配でもと思いますが、もう少しがまんでしょうかね? 北海道はもう2学期も始っている様ですが、私の子供達は、まだ夏休み中です。 まだ、子供がちびの頃は、朝6時30分のラジオ体操に参加すべく、半分眠った状態でも無理やり起こし、公園広場に連れて… 続きを読む
写真 湖面に映える夕張岳 『ふるさと大夕張』の写真掲示板に、2014年12月に投稿された晩秋の夕張岳の写真。 湖面に見事に夕張岳が映り込んでいます。 静かでクールな、そして時間がとまったような不思議な感動を覚えました。 投稿された准さんは、次のように書きました。 夕張本町出身のフジワラさん撮影 11月… 続きを読む
写真 2022年 晩夏の夕張岳 明日処暑を過ぎるともう晩夏とよべるそんな季節。 今日午後から千歳にいく予定があるので、午前中シューパロ湖方面を回ってみた。 鹿島眺望公園、夕張東(鹿島)高校跡地からの送信。 3月 神々しい雪の夕張岳 5月 雪が残る春の夕張岳 今日、8月22日午前11時。 気温は27度。陽射しは強いが吹く風が… 続きを読む
続・大夕張つれづれ イチョウの押し花|高橋正朝 #106 飯田さんが編集した地図をコピペ。 昭和33年頃の千年町駅付近 私が、鹿島東小学校に通学していた、3年生か4年生のころである。 どちらかというと、3年生だった可能性が強い。 同級生の女子生徒の誰かが、押し花をつくり、白い画用紙に貼りつけてクラスに持ってきたのだ。 その女子生徒が誰であっ… 続きを読む
音の風景 盆踊り歌 子ども盆踊り歌 なにかのきっかけで記憶が蘇ることがある。 この曲でいえば、「そろたそろたよ♪」の出だしである。 なぜかというと、この言葉の言葉とリズム、大夕張で聞いたCMソングに記憶がつながるからだ。 夕方のTVだったか、毎日のように『月がポンとでりゃ 星がポコ♪』と狸小路の歌が流れていた。 それを聞… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和27年 鹿島東小学校学芸会 写真が載っていた鹿島東小学校閉校記念誌のキャプションには、 『第1回学芸会の風景 体育館がなくて大夕張劇場での公演とか・・・』 と記載されている。 鹿島東小学校は、昭和26年6月開校、昭和27年は学級数12、児童数604人だった。 体育館ができたのは、新築校舎に遅れること約一年、昭和27年1… 続きを読む
音の風景 盆踊り歌 炭坑節と北海盆唄 昭和30年頃から昭和40年代、過ごした大夕張の『盆踊り』。 山神社下の鹿島小学校グラウンドで行なわれていた盆踊りが記憶に残るが、千年町では三吉神社前の広場、明石町では14丁目の広場等、各町内会で開かれていた。 老若男女大勢の人々が集まりにぎわいを見せていたという。 盆踊りの曲で、よく… 続きを読む
思い出の街角 明石町駅 昭和40年頃、明石町駅駅舎 高橋さんが、『続大夕張つれづれ#105 明石町駅の待合室』でこの写真を見て次のように書いた。 写真の左右にある立木はポプラである。 右側のポプラのある場所には花壇があり、ヒマワリやスミレなどが植えられていた。 私は動植物には興味がないせいか、他の花についてはあまり記憶にな… 続きを読む
思い出ばなし 大夕張っ子の茶飲み話 ある日、あるとき昔の子どもたちが、チャットをしていた。 ピーヒャラ、ピーヒャラ笛の音と花火の音。 1950年代に生れた人たちのようだ。 話は、お盆の話から花火の話に・・・・。 みなさん、こんばんは。静かなお盆をお過ごしでしょうか。 炭鉱も石炭で湧いた景気いい時代でした。 暗くなりだ… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 明石町駅の待合室 | 高橋正朝 #105 飯田さんが編集した写真をコピペ。 昭和40年頃、明石町駅駅舎 昭和33年11月3日に、明石町駅のプラットフォームから、上り線の鉄路の下をくぐる横断歩道ができた。 飯田さんが編集した年表には、こうでている。 1958年(昭和33年) •••••• 一部省略 •••••• 1… 続きを読む
随想 山麓の谷間に花咲かず-大夕張閉山初期のあゆみ 夕輝文敏さんが、小説『タイムカプセル』で、閉山後の大夕張の明るい未来を描いてみせた。 しかし、実際は上手くいかなかった。 閉山という地域崩壊の危機状況に直面し、現実に対応しながらその後の大夕張をよりよい方向に持って行こうとして努力した人々がいた。 ダムによる故郷喪失という状況の中で… 続きを読む
思い出の街角 桜ヶ丘神社 『シューパロ塾郷土誌研究調査報告(H14)』によると、この写真も、桜ヶ丘小学校小野寺利秋氏所有していた写真。 桜ヶ丘の農作物は、カボチャ、トウキビ、大根、豆類が多かったという。 桜ヶ丘での暮らしは、生活用品などの買い物には、南部や大夕張まで行った。 開墾当初(昭和23年頃)沢水を使い、ランプ… 続きを読む
学び舎の思い出 桜ヶ丘小学校 昭和21年(1946年)、桜ヶ丘に開拓農家の入植が始まり、昭和29年(1954年)には、22戸が営農していた。 昭和23年(1948年)7月に住民の要望もあり、南部小学校の仮教室11人での授業が始まり、その年の11月に桜ヶ丘小学校として開校した。 当初は、離農農家の家屋を校舎として使用し… 続きを読む
随想 小学校の通学区域変更 | 久々湊真一 私は昭和29年(1954年)に鹿島小学校に入学しました。 しかしながら 昭和30年末に学区の変更があって、小学校2年の終わりに強制転校となり、鹿島東小を卒業しました。 通学区域変更の内容は、泉町の川(宝の沢)を境に、千年町駅側は東小・大夕張駅側は鹿島小の区分けでした。 私なんぞは、 … 続きを読む