随想 母と大夕張 |あずき 私の母は親が営林署勤務であったこともあり、小学校時代は道内あちこちを転々としていました。 母は昭和42年ごろ、1年間だけ大夕張に住んでいたそうです。 錦町に営林署があったはずです。 母はその裏手の線路端にある職員住宅に住んでいたそうです。 そのころはまだ大夕張にも1万人以上の… 続きを読む
白地図 明石町 白地図 昭和38年 昭和38年(1963年)、大夕張ダム完成後の明石町の白地図。 黒く塗りつぶされたところは、この地図が掲載された『鹿島のあゆみ』が発行された昭和53年時にまだ存在していた建物を示す。施設を示す手描きの文字も昭和53年時のものだろう。 昭和38年と昭和53年を合わせた地図。 これを見… 続きを読む
訪問記 明石町駅地下通路 ホーム跡 1999 1999年(平成11年)6月、旧明石町駅舎が取壊しになった。その10日ほど前。 大夕張の玄関口だったという駅も、中学校を卒業して大夕張のまちを出た自分にとって、明石町駅は大夕張のはずれの駅という印象をどうしても拭えなかった。 私は、ここで乗り降りしたことはなかったが、鹿島(夕張… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 名前を知らない草木の実2種類|高橋正朝 #120 私が、鹿島東小学校時代に食した、名前を知らない草木の実が2種類あった。 その2種類とも、中学生になってからは食べていない。 理由は、小学生時代のように、下校時に、道草を食って野山を歩かなくなったのと、学校が休みのときも、野原やシューパロ川の岸辺や沢などを徘徊しなくなったからである。 … 続きを読む
訪問記 旧明石町駅 1997 1997年(平成9年)5月の旧明石町駅。 昭和48年(1973年)に廃止になってから24年、屋根が傾き、窓には木の板が打ち付けられながら、なんとかそこに建っていた。 この時期、故郷の大夕張を訪れた人は、きっとそうであるように、自分も「そこにある」ものたちを夢中で写真に収めたのだった。 正… 続きを読む
思い出の街角 小学校の踏切 鹿島小学校側から見た踏切。 それまであった鹿島小学校横の踏切に『椀木式遮断機』が設置されたのは、昭和38年10月のことだという。 夕張市で二番目にできた踏切だったという。 昭和44年にできた歩道橋はまだできていない頃のようだ。 学校に通った道としては、栄町、富士見町方面は北… 続きを読む
住民登録 2006年1月~12月 母の四十九日で札幌の実家に戻っている時に、両親とすごした大夕張に思いを馳せ、Googleで検索しているうちにこのウェッブページに遭遇しました。 すばらしいページの数々で感動しました。 2日間に渡って、くまなく拝見しました。 私は、昭和31年に大夕張で生まれ、鹿島小学校5年生の時に南部に移り、幌南中学… 続きを読む
2丁目3番地 鼓笛隊の誕生 昭和36年(1961年)に鹿島小学校の鼓笛隊が誕生した。 中心になったのは当時鹿島小学校教諭の田中豊一先生。 なにもかもゼロからのスタートだったらしい。 春に結成の打診を受け、その年の6月の運動会に、お披露目したという、今では信じられないほどの短期間での誕生だった。 その時の苦労話を田中豊一先生… 続きを読む
思い出ばなし ウサギのぴょん吉|石原賢治 鹿島小学校2年、3年の頃の話で近所のTさん宅で、ウサギを飼っていました。 そこのお兄さんによく遊んでもらってまして、ウサギが子を産んだと聞き、見に行きました。 ウサギは非常に感受性が強いのか、人に子を見られると食い殺すとかで、網には布で目隠しされて外から見えないようになってました。 … 続きを読む
思い出の街角 千年町界隈 戦没者慰霊碑 千年町駅から錦町にかけての山側にあった寺院街の一角。 慰霊碑の向こうに大聖寺が見える。 このあたり、春には桜が綺麗に咲き、花見の人々も多かったという。 平成になり、大夕張が閉ざされることになった時も、お盆には戦争で亡くなった人たちの家族が各地から参拝に訪れ、碑の前で手を合わせる人々の姿が多く見られた… 続きを読む
続・大夕張つれづれ スモモ|高橋正朝 #119 我々の年代では、プラムのことをスモモと呼んでいた。 プラムというちょっと気取った呼称は、東京にでてから、八百屋やスーパーの売場の品書きで知った。 北海道の今は、スモモのことをどう呼んでいるのだろうか。 若い世代はプラムと言い、我々の年代を含んだ老人は、相変わらずスモモと呼んでいるような気が… 続きを読む
思い出ばなし 大根の花 |ziny 11月の今頃はもう、鹿島の地も白くなっては、消え、また白くなっては消え、地面はゴム長靴の時期でしょうね。 あの頃の夏には、代々木町2丁目の我が家の前庭にはとうきびが結構大きくおがってました。 おばけとうきびといった実の不揃いのも、まま、ありましたが、甘くて美味しい味の思い出です。 トマ… 続きを読む
鹿島小学校校舎閉校の時 教室の窓から 1997年(平成9年)6月22日の日付。 この日は鹿島小学校の閉校式の日だった。 体育館で行なわれていた懇親会の喧噪から離れて一人で校舎を巡り、3階校舎の教室に行ってみた。 教室の窓から見る東側の山の姿はあの時と同じように見えた。 級友たちと学び遊んだ教室の日々。 教室の後ろで遊ん… 続きを読む
陳列棚 大夕張礦業所幼稚園 精勤賞 一年間、休まずに学校や、幼稚園に通うと当時は『皆勤賞』という賞状が貰えた。 『精勤賞』はそれに準ずるものとして貰うことができた。 それを励みに学校に通っていた時代もあった。 当時は『健康優良児』という言葉もあり、肉体の能力が健康の基準のようなところもあり、学校での表彰もあった。 … 続きを読む
学び舎の思い出 鹿島東小学校運動会 グラウンドに集う児童と観覧の大勢の人たち。 昭和26年に鹿島小学校から分離開校した鹿島東小学校の児童数は、昭和30年から昭和36年までのあいだ一千人を越えていた。 この他に『ふるさと大夕張2丁目3番地』で、昭和30年代を中心に鹿島東小学校の運動会の時の写真を見ることができるが、それを見ると、… 続きを読む
思い出の街角 高校への坂道 夕張東高校閉校記念誌『岳窓』(昭和58年閉校)より昭和57年(1982年)12月撮影とある。 写真のタイトルには、『バス通りから校舎を眺む』とある。 この写真では写っているかどうかはっきりしないが、目線の先の高台には白い高校校舎が見えていたことだろう。 鉄道跡はサイクリングロードとなり、… 続きを読む
続・大夕張つれづれ グミとグズベリ| 高橋正朝 #118 グミ(左)グズベリ(右) 私が、鹿島東小学校の4年生の6月下旬の頃、下校途中、私と他の遊び仲間2人でもって道草を食った。 その場所は、竜田沢と旭沢の中間ぐらいの、鉄道の山側の野原だった。 目的は何もない。 遊び仲間は、全員、明石町に住んでいたが、私は番外地に住んでいて、2人は… 続きを読む
街の行事 山神祭のボーイスカウト 昭和44年6月15日 栄町から炭砿病院方面。 6月15日山神祭の日の一コマ。 ボーイスカウトの子供たちの誇らしげな行進を、実に様々な人たちが集まり見守っている。 着飾った女の子たち、赤ちゃんを連れたお母さん達、和服姿のお父さん・・・、いろいろな年齢層の町の人たちが、沿道に集まっている… 続きを読む
思い出ばなし 錦町界隈|久々湊真一 「始めてのお買い物」というTV番組を見ていて、いつのまにか大夕張にタイムスリップしていた。 *** 自分の始めてのお買い物は、錦町入り口の購買会なのだろう(憶えていませんが)車も走っておらず家のすぐ前なので、スリルも何も無かったろうなぁー*** と。 錦町購買会は2階建ての大きな… 続きを読む
思い出の街角 駅前 鹿島警察官派出所 前回の『昭和45年頃 鹿島警察官派出所』は北側から撮影された写真だが、こちらは、南側、消防署の向かいからとられたもの。 広報用の掲示板の隣には、当時夕張市本町にあった『桑島整形外科医院』の広告看板が立つ。 拡大してみて思い出したことがあった。 1階南側の部屋の内側に鉄格子のようなものが見える… 続きを読む