常盤橋と野球帽と
沢をまたぐ道路ができるまで、千年町と明石町方面結んだ常盤橋。
昭和47年常盤町の街並みを背にカメラに向かって何か話しているようなのは、菅原少年。吊橋の欄干に電飾がともる。お祭り、お盆の日だろうか。
常盤橋の電飾ですが、多分手掛けていたのはうちの父です。
炭鉱で電工場、いわゆる変電所ですか、に勤めていて電気技師をしてました。
お祭りのときは電飾を担当していたはずです。
作業をしているところを見せるのも好きでしたので、橋の飾り付けに連れて行き、ついでにパチリだったのかも知れません。
被っている帽子が謎?の野球帽。
こんなデザインの球団って有りましたっけ?
それとも普通のキャップなのかな。
(2023年8月7日 記)
菅原さんのお父様が電飾を担当されたように、それぞれ立場、役割で地域のお祭りなどの行事に参加していて一体感があった。
昭和47年頃は、鹿島小学校から山神社に上る参道にも電飾がついていて、夜には明りが灯されて気分を盛り上げていた。
常盤橋の先のサトミ公園にも小さな水天宮があったという。
その参拝のための電飾だろうか。
野球帽といえば、昭和30年代の小学生だった自分は、野球帽をかぶった印象がない。
帽子が嫌いだったわけではないが、写真にも残っていない。
鹿島小学校や鹿島中学校の学生帽姿は、けっこう多く残っているのに・・。
昭和40年代の小学生だった弟は、写真には野球帽をかぶって、しっかり写っているが、学生帽姿はない。
自分の頃はあまり野球帽をかぶって遊んでいる少年の姿をみたような気もしない。
普段着に学生帽をかぶり、野球帽はユニフォーム同様、野球少年の憧れの一つでもあったような気がする。
いつから小学生が野球帽をかぶるのがあたりまえのようになったのだろう。
昭和30年代、プロ野球の有名選手達が漫画本の表紙や、パッチのメンコの絵になって登場していた。
そんな中でプロ野球への興味も高まっていた時期だった。
その頃の集めたものに、プロ野球バッチがあった。
金属製のメタルで、長方形の形をした球団旗のようなデザインだった。南海のHや、東映のF、巨人のGなどアルファベットが浮彫りになった単純なものだったが、それが欲しくて、菓子をかった。
当時よくある、お菓子のおまけ。
いつものように、結局全球団揃うことなくそれは終わった。
ただ当時カッコ良かくて集めた、そのバッチの印象だけが残った。
なんという菓子のおまけだっかのかさえ覚えていなかったが、わずかなそのデザインの記憶をたよりに、情報を辿ると、どうやら『仁丹ガム』のおまけだったらしい。