戦後まもない頃の母の鉄道の思い出|飯田雅人
2020-11-11
2021-06-27
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私の母から聞いた話です。
『山史』(三菱大夕張鉄道58年史)の中に、「雪害事故」と題して次のような記述があります。
昭和21年3月14日、融雪期にもかゝわらず夕刻より重量ある湿雪が降りはじめ、15日に至るも止まず、蒸気機関車3両をもって運転する。
ラッセル車も及ばず、線路両側は、数メートルに達する積雪となり、採炭を中止し、全従業員はもとより一般住民の協力をも得て、昼夜兼行の除雪を行い、18日夕刻の止みし頃漸く全線の開通を見た。
この間日数4日に及べり。
しばしば、冬には大雪のために、鉄道が止まることがあったようです。
昭和6年生まれの母は、娘時代、宝町の教員住宅に住んでいました。
大夕張から、夕張高等女学校に、鉄道で通っていたのですが、ある時、雪による脱線事故に遭遇したというのです。
大夕張に住んでいた方はよくご存じの通り、その頃は、鉄道が唯一の交通手段で、当時鹿の谷にあった夕張中の生徒や母と同様、高女に通う通学客でいっぱいだったそうです。
午前6:00に出た列車が清水沢駅の近くにさしかかると、降り積もった雪の為脱線し、一番前の蒸気機関車から雪の中に突っ込み、客車まで斜めに大きく傾いたというのです。
車内は当時学生でいっぱいで、悲鳴もあがり、騒然となったそうです。
その時、窓から外をたまたまみていた母は、これほど怖い思いをしたことはなかったそうです。
大夕張から通学の学生達は、開通までの数日を清水沢駅前の、「長江旅館」などに、みな雑魚寝で宿泊し、そこから通学したそうです。
開通まで食料など三菱大夕張鉄道の職員の手でとどけられていたということです。
(1998年12月15日 記)
南部の故・山影静子さんも夕張高女でした。南大夕張から清水沢、清水沢から国鉄で鹿ノ谷、そして夕鉄で新夕張(後の夕張本町)まで通学したと語っていました。夕張高女は学制改革で夕張東高となり、南清水沢に移転して南高校となりました。もとの校舎は冷水山麓の夕張第一中学、後の夕張中学になっています。
一口に通学したというけど、そう考えると、夕張市内とはいえ、当時のこと、通学にずいぶん時間がかかっていたのだろうと思います。今とは、時間の感覚がずいぶん違っていたんだろうなあ。
当時のことを知っている人も少なくなりました。