2001年秋の紅葉の季節。 明石橋の上から。 木々の間にシューパロ川の流れがみえた。 望遠レンズを使っての撮影だった。 …
2003年9月6日から10月13日の期間、夕張市美術館で行なわれた『比志恵司をめぐる鹿島~旭川の画家展』のポスター。 比志先生を始め、出品作家の先生方のお名前も懐かしい。 中学生が描く山神社下での写生の写真。 昭和40年代、鹿島中学校には年間行事で『写生会』があり、一日この場所で写生…
初めまして(^O^)/ 昭和41年生まれ または 42年で早生まれで 、鹿島中学を卒業された方 誰か いませんか? 中学1年の担任が嶋田先生。 2年の時も嶋田先生。 確か3年になってから高田先生になったと思いますよ(^O^) 自分は宝町に住んでいた 浅野と言います。 思い出しました。 鹿島中学に…
全景写真は冬に撮った写真。 スマホのパノラマ機能で撮ったもの。 左手奥に白金橋、右手が夕張シューパロダムの方向。 その広さがよくわかる。 これだけ広くなったシューパロ湖を抱えた夕張岳。 故郷に帰っても、夕張岳と広大な湖は自然の中で、そこは、あまりにも気高く、文字通り、もはや『取り付く島も…
かつて大夕張鉄道の歴史を記した『山史』のホームページがあった。『山史』を編纂された菊池さんの息子さんである審人さんが作成されていたもので、貴重なサイトだったが今はない。 その中に掲載されていた懐かしい一枚だ。たぶん閉山前後の写真だろう。 大夕張炭山をゆっくりと発車した石炭列車は少しずつスピ…
白黒写真に色を付けると、立体感や臨場感が増し、当時の様子が生き生きと蘇ると言われ、昨日の新聞にも、どこだかの大学が、関東大震災の時の写真をAIと人の手による着色で、当時の記憶が生々しく蘇ったなどという記事が載っていた。 着色作業をしていて、色付けしたばかりに却って侘しさ寂しさを感じる写真があ…
大夕張時代、私が鹿島東小学校や鹿島中学校に通う時間は、およそ1時間かかった。 開拓からそれぞれの学校に通っていた人は、もっと時間がかかった。 春日町から鹿島小学校に通うのはともかく、鹿島中学校に通う生徒も1時間をこえていただろう。 徒歩通学だから、都会に住む少年少女たちより長距…
鹿島小学校前踏み切りの写真を見ました。 いやー、懐かしい場所ですね。 列車が来る方向の奥には、錦町購買会の建物が見えますし、泉町の坂も判りますね。 ここは、数え切れないほど、往復した道です(涙、涙)。。。 写真を見ているうちに、音の記憶が蘇ってきたので、ちょっとだけ書いてみます。 大夕…
昭和24年に大夕張を後にして横浜に住んでいるけれど、大夕張時代の出来事が一番印象に残っていて、夕張岳を奥に控えて真っ赤に紅葉した紅葉やシューパロ川、同期の可愛かった子。 山登りや遠足など未だに瞼の裏に残っています。 同窓生とも何人かと文通していますが懐かしい思い出がいっぱいですね。 哲じいさん te…
思い出しますね。 磯次郎の沢。 秋には山葡萄・こくわ・茸 よく取りにいきました。 それに 色々化石。 もうダムの底ですね。 歴史の一頁。 たじ<か>北海道, 栄町 70歳以上 男性 - 2014/12/14 _ 15:06:13 真っ黒い川と 清流の磯次郎が 思いで深いです 福士…
左右に交差して上に向かう二つのペンの上に 「鹿高」 の文字。 昭和58年(1983年)に閉校になった夕張東高等学校の鹿島高等学校時代(昭和27年~昭和39年)の校章。 夕張北高校鹿島分校が夕張市立鹿島高等学校として独立した年、昭和27年(1952年)に同時に制定された。(作者島正位) …
私は昭和27年(1952年)産まれです。 子供の頃、常盤町に住んでました。 昭和55年に千歳市に住んでいて、鹿島中学校まで家族でドライブに。校舎も取り壊されグラウンドで、フキ採りをしたのが大夕張の最後の思い出です。その時は、大夕張が水没するとは思っていなくて、今考えると残念です。 今…
歩道橋から撮影した錦町方面の写真。 手前には、今まさに鹿島小学校前の踏切にさしかかる列車、先頭の蒸気機関車のプレートも『No.5』と読める。 大夕張駅に到着だ。 その背景、写真の右手には、鹿島小学校の木造体育館が見えている。昭和53年に新体育館ができるまで、大夕張の子どもたちの体育や…
私が鹿島東小学校の3年生から5年生ぐらいまで、明石町の集会所で、夜間に映写会があった。 大夕張の景気が絶好調の時期である。 夏休みの時期には、集会所前の小さな広場に幕を張り、映画を上映した。 映画を上映すると聞いて、陽が落ちる前から広場に駆けつけた。 映画の内容は、…
サッポロファクトリーで、懐かしい時代を見てきました。 子供の頃の生活がそのまま! 古い教室に木の机と椅子 だるまストーブ・・・ストーブのそばに座った人は顔が真っ赤になって・・・学校から帰ると外で暗くなるまで遊んでた。 ワカメちゃんカットの頭で、自然のままに・・・ 故郷はなくなったけ…
「大夕張の音」 このフレーズに古い記憶が・・・。 昭和35年頃の小学生時代の記憶でしょうか。 昼過ぎから夕方近く、一人でいたのでしょうか。 代々木町2丁目の家の中は静か・・・。 屋根のトタンに、パタ、パタ、パタ、長屋のトタン屋根にパタッ、パタッ、パタパタパタ、タンタンタンタン、パタパ…
写真すぐ左手の大夕張炭山駅から一日に何度も石炭を運んで行き来していた鉄道は、すでに撤去されてない。 閉山翌年の頃だろうか。 炭砿病院前のかつての線路の周囲に伸びた雑草が、失われた活気の大きさを感じさせる。 右手正面玄関の上には、「三菱大夕張病院」の文字。 …
昭和46年3月卒業の鹿島中学校卒業アルバムから。 「球技大会」とタイトルを打たれたページの一コマ。 アルバム編集委員のつけたコメントには、「何こちゃこちゃやってるの」というコメントが付けられている。 確かに、何をしているのとツッコミを入れたくなるけれど、おそらくサッカーの試合だったのだろう。…
昭和34年(1959年)鹿島小学校グラウンドのソニー号 ソニー号について、初めてその名を聞いたのは、もちろん大夕張にいたときではなくて、2001年頃に内川さんから、大夕張上空を周回するその映像を見せていただいたときだった。 いきなり画面タイトルに「ソニー号来校」と出てくるから、これはもう、…
表紙の夕張岳の写真は、シューパロ湖畔にあった展望台からの撮影したもの。 【書 名】『鹿島で暮らした日々 大夕張』 明石町/千年町/宝町/錦町/緑町/栄町/代々木町/富士見町 【発行日】平成10年(1998年)2月発行 【編 集】 夕張シューパロダムふるさと誌編集委員会 【監 修】 …