昭和40年代、大夕張駅前から春日町方面に向かっていく通り。 これまで掲載していた写真と元は同じ写真と思われるが、こちらは昭和48年発行の大夕張炭労「未来に向かって」の中で『大夕張駅前通り』として掲載されていた。ずいぶん色味が異なる。 もうずいぶん前になるが「ふるさと大夕張」の掲示板か、住民登録の…
小学校5年の時に、何故か化学者に憧れて、試験管やらビーカーを買ってきた。 長年シコシコと貯めていた小遣いを、思い切り良く全部これに充てたのでした。 「何に使うの?」 と両親から咎められたが、案の定、実験のアイテムも無くて、ただ透明の容器を眺めて磨いて、ニタニタしていただけであっ…
大夕張つれづれ # 11 〘 ハチ公前で出会った若者 〙に、DATE さんという方から、2022-11-05 にコメントが入ってました。 私の投稿は、パソコンだけでの書き込みや閲覧できる時代の〘 大夕張つれづれ 〙のホームページだったので、現在でも閲覧している人はいますが、旧い…
昭和30年代半ばに建て直されたという購買会の建物。 それから約10年後。 二階は家具売り場(窓からそれらしき様子が見える)で、食糧、生活日用品は、一階に各種店舗が入っていた。 秤売りの様子をじっと見ていた昭和30年代。 たしか買い物客用の玄関は、北側と南側に二カ所。それともう一…
晩秋の青空の広がる鹿島小学校。 1997年(平成9年)6月閉校式の参加者に配られた閉校記念誌「かしま」。 その巻頭を飾っていた鹿島小学校の校舎。 参加した多くの同窓生の胸に刻まれた一枚となったことでしょう。 …
鹿島小学校郷土室保管の校章 昭和25年(1950年)4月1日制定 【由 来】 緑の柏葉に因る正六角形に、白い雪の結晶形を重ね、中央に校名の題柱ともいうべき、頭文字『鹿』を配し校章となす。 雪の結晶は北海道を外側の六角はダイヤで石炭(黒ダイヤ)を象徴し、石炭の都夕張を表現したものである…
病院前の道路も舗装になった昭和40年代のころ。 6月、子ども達の神輿行列が炭鉱病院前を行く。 トラックに積んだ巨大なスピーカーの上、山車には『春日』と書かれており、春日町内会の子どもたちの行列のようだ。 春日町詰所前の広場を出発した神輿をかつぎ、子どもたちが隊列を組んで街中を練り歩く。 …
春日町から弥生町に登ってくる神輿を弥生町の崖の上から撮影した写真。 散歩道の地図と比べてみると、坂のこちら側は、弥生町3丁目。向こう側は、4丁目ということになるのだろうか。 崖の下はすぐ春日町の炭住が建ち並ぶ。 駅前の通りの先を右手に曲がって、弥生町3丁目と4丁目の間をくだっていく坂道、…
私の前回の投稿、続・ふるさと大夕張 # 120 〘 名前を知らない草木の実2種類 〙に対し、成田利夫さんからコメントがありました。 名前を知らなかった白い実の草は、フッキソウという名だということで、URL が添付されていました。 その URL は、以下のとおりです。 tiotrinit…
すずらん型の街灯にオート三輪、昭和30年代中盤最盛期の頃の大夕張駅前商店街だろう。 初夏を迎え、お祭りの季節がやってくると、街に幟があがり、紙桜の飾りで街が彩られる。 着物姿の女の子達の踊りとそれを見ている大勢の人たち。 駅前から春日町方面に続く通りをうめる、人また人の波に圧倒される。 …
平成15年(2003年)10月7日。 昭和26年卒、鹿島中学校同期会が札幌グランドホテルで開催された。 午前中、希望者にバスツアーが計画され、夕鉄バスで、湖底に沈むと言われる「ふるさと大夕張」へ、行って来た。 南大夕張を過ぎると、シューパロ湖が眼下に広がり、その向こうに夕張岳が姿を現してきた。 …
我が家の親の部屋に大夕張鉱業所の記念の皿が飾ってあります。 直径26cmの白地の皿に、紅梅の一枝に咲く数輪の花と蕾と、うぐいすが描かれ、皿の中央寄り縦に右から【 心を一つにして 社長 大槻文平 】と記されております。 裏面には【 七万屯突破記念 昭和41年3月 三菱大夕張鉱業所 …
私の母は親が営林署勤務であったこともあり、小学校時代は道内あちこちを転々としていました。 母は昭和42年ごろ、1年間だけ大夕張に住んでいたそうです。 錦町に営林署があったはずです。 母はその裏手の線路端にある職員住宅に住んでいたそうです。 そのころはまだ大夕張にも1万人以上の…
昭和38年(1963年)、大夕張ダム完成後の明石町の白地図。 黒く塗りつぶされたところは、この地図が掲載された『鹿島のあゆみ』が発行された昭和53年時にまだ存在していた建物を示す。施設を示す手描きの文字も昭和53年時のものだろう。 昭和38年と昭和53年を合わせた地図。 これを見…
1999年(平成11年)6月、旧明石町駅舎が取壊しになった。その10日ほど前。 大夕張の玄関口だったという駅も、中学校を卒業して大夕張のまちを出た自分にとって、明石町駅は大夕張のはずれの駅という印象をどうしても拭えなかった。 私は、ここで乗り降りしたことはなかったが、鹿島(夕張…
私が、鹿島東小学校時代に食した、名前を知らない草木の実が2種類あった。 その2種類とも、中学生になってからは食べていない。 理由は、小学生時代のように、下校時に、道草を食って野山を歩かなくなったのと、学校が休みのときも、野原やシューパロ川の岸辺や沢などを徘徊しなくなったからである。 …
1997年(平成9年)5月の旧明石町駅。 昭和48年(1973年)に廃止になってから24年、屋根が傾き、窓には木の板が打ち付けられながら、なんとかそこに建っていた。 この時期、故郷の大夕張を訪れた人は、きっとそうであるように、自分も「そこにある」ものたちを夢中で写真に収めたのだった。 正…
鹿島小学校側から見た踏切。 それまであった鹿島小学校横の踏切に『椀木式遮断機』が設置されたのは、昭和38年10月のことだという。 夕張市で二番目にできた踏切だったという。 昭和44年にできた歩道橋はまだできていない頃のようだ。 学校に通った道としては、栄町、富士見町方面は北…
母の四十九日で札幌の実家に戻っている時に、両親とすごした大夕張に思いを馳せ、Googleで検索しているうちにこのウェッブページに遭遇しました。 すばらしいページの数々で感動しました。 2日間に渡って、くまなく拝見しました。 私は、昭和31年に大夕張で生まれ、鹿島小学校5年生の時に南部に移り、幌南中学…
昭和36年(1961年)に鹿島小学校の鼓笛隊が誕生した。 中心になったのは当時鹿島小学校教諭の田中豊一先生。 なにもかもゼロからのスタートだったらしい。 春に結成の打診を受け、その年の6月の運動会に、お披露目したという、今では信じられないほどの短期間での誕生だった。 その時の苦労話を田中豊一先生…