昭和8年大夕張礦業所全景の写真は、以前、九州の大学図書館のデジタル資料で公開されていたものだったと記憶するが、現在探しても見つからない。 年代は、昭和8年(1933年)とあっった。 南部から、(北部)大夕張に移転後、4年ほど経過した時期の頃。 鉱員の住宅街。場所は栄町。 炭鉱操業当時は、炭鉱住宅…
石炭とズリが選炭機にくる前の、現場の話を書きます。 私は、掘進現場と採炭現場の機械も、修理していました。 炭鉱の事を、採炭現場から選炭機まで知ってる人は、少ないと思います。 思い出しながら書きます。 採炭現場 大夕張 採炭現場 南大夕張 採炭現場 まずは、採炭現場から。 ドラムカッ…
当時、南部に住んでいたKawauchiさんがご家族のスキーをビデオで撮影したもの。 ロープ・トウ ロープ終点の小屋 急角度の斜面のてっぺんは、神社に続く、八百五十の尾根。 短いながら、これら懐かしい背景が映像の中に映り込んでいます。 その頃、ビデオはなかなか一般的ではなく貴重でした。 https…
今から7〜8年ぐらい前だから、2014年ぐらいのときだったように思う。 用事があってバンコクから帰国した際、札幌で、鹿島東小学校の4〜6年生の菊組で同級だった、苗字のイニシャルの U という男性と会った。 娘さんが2人いて、それぞれ子どもがいる。 U…
『校歌よ永遠に』で伴奏譜からMIDIデータに作成したのが、1998年頃。当時、『Singer Song Writer(SSW)』というソフトウエアを使っていた。歌詞とMIDIデータを並べたページを作り、CDに保存しておいたりして、交流会でお披露目などしたこともあった。 それから、手つかずだったデ…
小野さんの『人々でにぎわった教会のバザー』のおはなし。 昭和39〜40年の夏の話ではないでしょうか? アメリカの祭りみたいのが、大夕張のカトリック教会で有りまして、皆さんが誘ってくれて、なんだか分からないうちに、教会の会場に行きました。 中はアメリカンスタイルで、そこにいるだけで…
昭和30年代、大夕張炭鉱労働組合の主婦会による団体行動。婦人たちに混じり子どもたちの顔も見える。 大夕張礦業所のゲート前に集結するところのようだ。 大夕張炭山駅の屋根のあたりから撮影したと思われる北から街方面を撮影した構図。 冬空の下の組合行動とはいえ、カメラに写る婦人たちの表情に笑顔があり、どこと…
私の記憶では、昭和30年代前半まで(1950年代)、富士見町のスキー場は、段々畑がそのままスキー場になっていたような気がします。 ですから、滑り降りると、下手な人は段差で腰をとられ転ぶことがよくありました。 そのような話が、このページで出てこないところをみると、その後、改修されたものでしょ…
昭和30年頃。 この場所は、後年、大夕張ダムが作られたところ。 かつて南部から夕張川を遡行すると上流は二股に分かれていて、シューパロ川とパンケモユーパロ川が合流していた。 二つの川の合流地点であることから、二股、と呼ばれた。大夕張ダムの別名も、二股ダムである。 大夕張ダムができる以前、この…
もう30年たちますが、私は小学校2年の時から大夕張を離れる小学校6年の冬まで、富士見町1丁目22番に住んでおりました。 冬休みともなると、今みたいにゲームボーイも、ベイブレードも無い時代ですから、毎日毎日、朝から晩までそのスキー場で滑ってました(上から降りてくるとその惰性で玄関まで入れるよう…
昭和32年4月 大夕張駅 見送りの風景3 祖父長谷川安造が昭和13年春以来19年間勤めた鹿島小学校を転勤になり、大夕張に別れを告げた。 大夕張駅ホームでの見送りの様子。 白黒写真に着色した画像 大夕張駅 【泊川俊徳】 (2007/03/28(Wed) 11:13) 子供の頃、大夕張駅は随分大き…
「音のある風景」のなかの取水堰のページを見ると、取水堰上流で、よく泳いだことを思い出します。 選炭した下流とは違い、じつにきれいな流れでした。 取水堰の堰下で、心得のある人は、よく八目うなぎを採っていました。 取水堰の上流で泳ぎ空腹になると、焚き火をし、ようやく伸びてきた山ぶどうの若いつるを…
昭和40年代、大夕張商店街で使用されていた大夕張スタンプの看板。 大夕張スタンプを利用できる組合加入の店頭に、この看板が掲げられていた。 「ふるさと大夕張2丁目3番地」の昭和40年代の商店街の写真では商店の店頭に掲げられてのを見ることができる。 買い物で、大夕張スタンプを利用する際の…
もう 40年も昔になるのでしょうか? 大夕張カトリック教会の裏庭で、それはそれはにぎやかなバザーが催されました。 沢山の人々が、ジュースや食べ物を手に、即席ステージで演奏される音楽を楽しみました。 教会は聖歌のように聖らかな音楽を演奏するところと思い込んでいた幼い私は、カントリーウエスタン…
1953年(昭和28年)4月1日、準備委員会が発足し、6月7日、生活共同組合創立総会が開かれた。 そして、駅前の旧明倫寮前に仮事務所を定め、その年の夏、8月11日から店開きをした。 写真は、その当時の様子。 6坪の広さで開業後、翌、昭和29年8月には98坪、昭和36年10月には314坪と、拡大発展し…
小学校4.5年生の頃(昭和40年頃)しばらく、大夕張カトリック教会の 「日曜学校」に、通っていました。 教会では塾もやっていて、週に2回ほど算数と英語を教わっていた記憶があります。 3時間目は、御堂に移り、ひざまづき、ミサを行い、讃美歌も歌っていました。 当時の先生は、河村先生というやさ…
「秋田梵天会」という言葉は、耳新しかった。 梵天とは、ぼんでんと読むそうだ。 大夕張でどのようにおこなわれた行事なのか、わからないが、『梵天祭り』とは、1月に行なわれる秋田県固有の歴史ある神事で、前年から製作した梵天をかついで村札をかざし神社を目指し、ほら貝を轟かせて、梵天唄を響き渡らせながら…
鹿島東小学校に音楽室ができたのは、年表をみると、昭和30年(1955年)10月のようである。 この年に、私は東小学校に入学している。 体育館で朝礼や何かの催し物があると、担任の先生が生徒を引率して体育館に向かった。 当時、東小学校の低学年のクラスは、音楽室があるエリアだ…
空知地方史研究協議会より「空知の鉄道と開拓」が刊行されました。 内容は空知管内の国鉄から私鉄・専用線・森林鉄道までの歴史が網羅され、各市町村の郷土史家等が中心になって執筆しています。 「三菱大夕張鉄道」については一時期、夕張東高校の教諭を務めた北海道開拓の村学芸課長の野村崇氏が執筆しており想い…
私は、今年60歳、高校一年まで大夕張で過ごしその後札幌に出ました。 私の母は、秋田の千畑村の出身です。 母が22歳から23歳の頃大夕張にきて父と結婚、そして私が生まれました。 ですから私の旧姓は、中城です。 私に2人の弟がおりますので、弟とのかかわりのあるかたもおられるかと思います。 私…