Masa

北海道夕張市鹿島1番地。昭和31年3月、大夕張生まれ。 昭和31年から、昭和46年まで、炭礦で繁栄する、自然豊かな街で幼少年期を過ごしました。中学校卒業、炭砿病院の薬剤師だった父が亡くなり、大夕張を離れました。昭和48年三菱大夕張炭礦が閉山になる2年前のことでした。 1996年に「ふるさと大夕張」を開設、運営。2019年12月より再起動しました。
雪催いの町|山吹とおる 雪催いの町

雪催いの町|山吹とおる

雪催いの町 詩・曲 山吹とおる    人の群がっていた この町(炭鉱)は みんなの中で 大きな町でした 抜け殻のように 寂れた町になりました 泣きながら 夜を過ごし 泪は頬にながれ落ち 川の流れに あなたの町も 大きな湖(うみ)になりました   みんな歩いた道 今はない 大きく高く 積まれた炭の丘(…
1980年(昭和55年) 昭和

1980年(昭和55年)

3月 31日,聖心幼稚園廃園(s49年度園児38名)。 鹿島小放送施設新設替4月 1日,鹿島東小第6代今井欣一校長。 奥鹿島分校児童数1となり,教員定数も1となる。 鹿島中第10代工藤善一校長。 >大夕張保育所開設。8月 鹿島中,第4線校舎(製図室,柔道室)の壁撤去通し教室に改造,第3便所改修。10…
結婚の日 その一 記念の日

結婚の日 その一

私の父飯田孝と、母長谷川彌惠子(みえこ)は、昭和29年(1954年)10月に結婚した。 父は、栃木から東京の薬科を出て身一つで大夕張にやってきた。母は、教員家庭の9人姉弟の長女として大夕張に暮らし、病院の事務室で経理をしているときに、父と知り合い結婚した。 結婚のことは、ほとんど聞いたこともなく、父…
遙か遠い大夕張 |KM 思い出ばなし

遙か遠い大夕張 |KM

   明石町で生まれ、小学5年生まで鹿島東小に通っていました。  小学2年生頃までは、千年町まで汽車で通学していましたが、その後徒歩で通学してました。  今、思い返すと片道3キロ以上を、ひたすら歩いて通学していたんですね。  常盤町を過ぎると、明石町までは、人家も何もない砂利道を歩いて通学するのが当…
大夕張鉄道敷設案 あらかると

大夕張鉄道敷設案

 昭和4年の(北部)大夕張開鉱以前、北部大夕張の炭田の有望なことが明らかになり3本の専用鉄道敷設案が検討された。 大正7年(1918年)  7月、三菱鉱業が北部大夕張(鹿島)を調査し始める。  北部開発第1次案として『北部大夕張-万字間』鉄道調査。  万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂…
神戸田舎者物語 | 斎藤敏幸 随想

神戸田舎者物語 | 斎藤敏幸

 所用があり、昨日神戸へ行き、その夜、同級生の加藤(旧姓)美代子さんに会ってきました。  彼女は、僕と同じ栄町ブロックに、新築時から入居し、18になって大夕張を後にするまで、上と下に住んでいました。   小学校から高校まで一緒で、幼なじみというよりは、兄弟姉妹の感覚で付き合ってきました。  中学・高…
三菱(鉱)バスにのって シューパロ湖畔へ 鹿島東小学校遠足 学び舎の思い出

三菱(鉱)バスにのって シューパロ湖畔へ 鹿島東小学校遠足

昭和42年頃、シューパロ湖畔の公園。 児童の後ろに見える遊具の回旋塔も懐かしいタイプだ。   鹿島東小学校(当時一学年2学級)の遠足だったそうだ。   三菱バスに揺られて大夕張から遠足にいった先での集合写真。 バスにつけられている愛称、左『はまなす』、右『くろゆり』と読める。   白黒写真に着色した…
鼓笛隊 |石原賢治 思い出ばなし

鼓笛隊 |石原賢治

 思い出帖の中に鼓笛隊の写真が掲載されています。  私も、昭和43年当時所属していました。  確か4年生から入部出来たのではないかと思います。    低学年の頃は、運動会ですとか、何かの行事ですとかで、パレードする姿を見て、とてもまぶしい気持ちで眺めていました。  子供心ながらに、クリ-ム色のベレー…
三菱、大夕張炭坑買収のころ あらかると

三菱、大夕張炭坑買収のころ

 手元に昭和41年8月1日発行の大夕張炭鉱労働組合『二十年史』がある。労働組合が記述した労働者の歴史、とはいってもかたぐるしくなく、読み物としても面白い記述が多い。時代の雰囲気や、様子がわかる部分を抜き書きしながら、ここに書き留めていきたい。    以下は、明治末期、資本参加していた三菱が、大正五年…
昭和40年 バス旅行 その2 楽しかった日々

昭和40年 バス旅行 その2

『昭和40年バス旅行 その1』の写真と同じ昭和40年8月14日の写真。  写真の三菱バスの後部には『シューパロ』と名前がつく。 白黒写真に着色した画像 「シューパロ」と書かれた車体と、休憩中の運転手とバスガイド    当時、三菱バスの貸切車には愛称名がついていた。 『三菱(鉱)バスにのって』の写真で…
コスモス(秋桜)の種(タネ) 写真

コスモス(秋桜)の種(タネ)

時々、大夕張の写真を見ていると、白黒写真ではあるが、軒先にコスモスの花らしいものが映り込んでいるものある。 それらを見て思い出した。   庭先に植えていたコスモス。 普段何気なく道を歩いていても見かけて、ほとんど意識もしなくなっていたが、大夕張の家の畑や庭にたくさん咲いていた。   コスモスの色は何…
1992年の同窓会 昭和29年鹿島中学校卒業

1992年の同窓会

 今から30年ほど前、北海道新聞夕刊のコラムに、ある同窓会の様子が取り上げられた。  1992年(平成4年)4月15日(水曜日)のことだ。  それは、京都市嵐山で行なわれた鹿島中学校7期(昭和29年卒)の同窓会だった。    同年、大夕張では、夕張シューパロダム対策協議会が発足し、生活相談所が開設さ…
北海道弁••••••じょっぴんかう、じょっぴんかる |高橋正朝 #64 続・大夕張つれづれ

北海道弁••••••じょっぴんかう、じょっぴんかる |高橋正朝 #64

 北海道弁、〘 じょっぴんかう 〙もしくは〘 じょっぴんかる 〙は、ネットで調べたら、東北地方でも使うようである。  この言葉のルーツも、やはり東北だろう。 ただ、この〘 じょっぴんかう 〙〘 じょっぴんかる 〙の検索結果の件数は少ない。       我が家では、〘じょっぴんかう 〙という表現だった…
列車の冬支度|奥山道紀 運んだ、石炭を人を

列車の冬支度|奥山道紀

10月も残り僅か。   11月に入ると三菱大夕張鉄道でも本格的な冬支度です。   大夕張炭山の機関庫では、ラッセル車が整備され、客車にもダルマストーブが設置されます。 夕張岳の頂が白く化粧をすると、やがて炭鉱街も雪の季節となります。   シューパロ湖も凍結し、白銀の世界になるのも間もなくです。 19…
炭鉱の言伝え |Kawauchi Masami 思い出の記

炭鉱の言伝え |Kawauchi Masami

    嘘か本当かは分かりませんが、私の兄、次男が言っていたことです。  まず、  三菱の職員住宅は、後ろが山で、暴動が起きても責められ難いとか、  大夕張の街には、鉄道でしか行けず、道が無かったのは、昔、タコや朝鮮人が連れて来られて、逃げられない様にしていたとか、  戦争が終わった、終戦後、引揚者…
2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その4 2丁目3番地

2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その4

 当日を迎える迄に、何回か、番組製作会社の方と連絡、打ち合わせをした。  自分の役割はたぶん当時のネットでつながっていた仲間の人たちに、人を大夕張に集まるお願いをしたというところだろうか。  先にも書いたが、どんなことを打ち合わせて、自分が何をしたのかはすっかり忘れてしまった。  それでも、自分も含…
2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その3 2丁目3番地

2001年10月28日 ~私のふるさと物語~その3

 この大夕張のロケの発端や、自分の詳しいかかわりなどは、20年前のこととて、すっかり忘れてしまった。    ただ大夕張がダムに沈むということで、当時は『消える大夕張への思い』が、各種メディアで盛んに取り上げられ報じられてていた。      下の新聞記事は、故郷への思いをテーマに、自分も取り上げられた…
2001年10月28日 ~私のふるさと物語ロケ~その2 2丁目3番地

2001年10月28日 ~私のふるさと物語ロケ~その2

午後11時頃、最初に、鹿島小学校校歌の歌唱シーンの収録から始まりました。 鹿島小学校鼓笛隊生みの親、田中豊一先生(田中先生は2010年にお亡くなりになりました)のピアノ伴奏に合わせて、「ああ、大夕張」の合唱がグラウンドに響きます。 イリュージョン。かつての大夕張駅前通り。元住民達が懐かしそうに笑顔で…
2001年10月28日 ~私のふるさと物語ロケ~その1 2丁目3番地

2001年10月28日 ~私のふるさと物語ロケ~その1

 平成13年(2001年)10月28日、住民が立ち退き人のいなくなった無人の大夕張に、多くの人が集まった。その時のことを当時参加した斎藤敏幸さんが、後日、次のように書いている。    10月28日、大夕張に一つの奇跡が起こりました。  その日、鹿島小学校校庭に、50人以上のかつての子どもたちが集まり…