備忘録

「ふるさと大夕張」についてのあれこれ書いた、masaのブログ
「1丁目1番地」・・・1996年~2020年2月までの「ふるさと大夕張」
「2丁目3番地」・・・2020年2月からの「ふるさと大夕張」
「あらかると」・・・大夕張のむかし・歴史のひとこま・エピソード

三菱大夕張高等家政学校 あらかると

三菱大夕張高等家政学校

三菱大夕張高等家政学校は、昭和21年7月1日創立。   三菱大夕張礦業所では、従業員子女の教育を重視して、大夕張学園女子家政塾として昼夜の授業をおこなった。   160名収容、本科2年、専修科1年、毎年70名から80名の卒業者をだした。 栄町3丁目18番に幼稚園と同居していた。 家政一般学を教授し、…
ICAコンサルタント あらかると

ICAコンサルタント

   1977年に、大夕張カトリック教会跡地に世界的な組織であるICA(地域人間開発計画のメンバー)が入山。  地元の開発対策委員会の協力によって、一週間にわたる開発会議がもたれた。    外国人約100人をまじえ、コンサルタントたちが、世界での23に及ぶ実績の上に立って様々なプログラムが討議された…
札幌にあった三菱の宿泊施設 覚え書き 2丁目3番地

札幌にあった三菱の宿泊施設 覚え書き

 実は、『札幌にあった三菱の宿泊施設』は前回の『その3』で終了の予定だった。 記憶の中にあった、自分が泊まった北1西8の寮と、スキー部が泊まっていた南3西23あたりにあった寮。  この2つは記憶に確かにある。そして、北2東6の三菱鉱業寮にも泊まった人がいる可能性もないわけではないということだった。 …
昭和48年 閉山直前の大夕張の商店 あらかると

昭和48年 閉山直前の大夕張の商店

商店名は、『夕張市史(S56)』『鹿島のあゆみ』に、掲載されていたもの。これらに住宅地図や、写真にうつる看板、記事などから、町内名をつけて記載。   1973年(昭和48年)夏に大夕張炭鉱が閉山されと、大部分が移転を余儀なくされた。その一部は南部青葉町に新しい商店街を形成した。 閉山直後は、約4分の…
大夕張鉄道 沢と橋(山史から) あらかると

大夕張鉄道 沢と橋(山史から)

1号の沢鶯     沢2号の沢吉  野  沢3号の沢五 十 鈴 沢4号の沢香  椎  沢8号の沢明  石  沢5号の沢旭     沢6号の沢竜  田  沢7号の沢宝     沢名  取  沢初  音  沢昭和2年11月4日名称を付す  明石沢は、当初暗渠布設の予定だったが、これを橋梁に変更したため、…
札幌にあった三菱の宿泊施設 その3 2丁目3番地

札幌にあった三菱の宿泊施設 その3

旧永山邸の門柱と旧三菱鉱業寮の建物    札幌市中央区北2条東6丁目、大型商業施設の隣りに三菱鉱業が所有していた、旧永山邸がある。  永山邸は、明治10年代に建築された永山武四郎の私邸。  1911年(明治44年)に三菱が買収し、事務所として使用、1937年(昭和12年)に北1条通りに面した北側部分…
札幌にあった三菱の宿泊施設 その2 2丁目3番地

札幌にあった三菱の宿泊施設 その2

 (前回のつづき)  前回、 Masaaki Saito さんの南3西23あたりにあった宿泊施設と、自分の北1西8にあった宿泊施設の思い出について掲載したが、同じような思い出をもち、何か覚えている方がいるのではないだろうか?と思い、何人かの方に聞いてみた。  その記憶を以下に紹介する。  (Kawa…
札幌にあった三菱の宿泊施設のはなし その1 2丁目3番地

札幌にあった三菱の宿泊施設のはなし その1

 先日、鹿島中学校の同級生のMasaaki Saitoさんから、メールがあった。  札幌にあった三菱の宿泊施設についてだった。  Masaaki Saitoさんのメールによると、その宿泊施設は、南3条付近で、西は23丁目前後だったという。  そこに宿泊した時の思い出を次の様に書いてくれていた。  お…
3年目の独り言 2丁目3番地

3年目の独り言

 昨日12月8日で、『ふるさと大夕張』の更新を再開してからちょうど2年たちました。今日から3年目。    備忘録ということで、例によって自分のために節目の記録として残していきたい。  昨年1年経ったときには、次の様に書いていた。  『今後も、旧『大夕張掲示板』や、旧『住民登録』の投稿を、現在の『夢の…
生協のたんじょう 1953  あらかると

生協のたんじょう 1953 

1953年(昭和28年)4月1日、準備委員会が発足し、6月7日、生活共同組合創立総会が開かれた。 そして、駅前の旧明倫寮前に仮事務所を定め、その年の夏、8月11日から店開きをした。 写真は、その当時の様子。 6坪の広さで開業後、翌、昭和29年8月には98坪、昭和36年10月には314坪と、拡大発展し…
逃 亡 あらかると

逃 亡

大夕張が、まだ南部だったころの大夕張炭坑の時代。   明治末期、日露戦争後、日本の経済は大不況に陥り、炭鉱の経営も苦しくなった。 炭坑夫 の中にも、重労働から逃れて他の職を求めたり、少しでも景気のいいヤマにいこうとするものがいた。 他のヤマからの引き抜きもあったという。 飯場制度の下にあった 炭坑夫…
千年町に入った 指定商たち あらかると

千年町に入った 指定商たち

 南大夕張から新鉱を開いた北部に移転するのに伴い、それまで南部で営業していた商店が、大夕張に移転してきた。  三菱礦業所が、鉱業用地の一部を区割りして、1戸当たり間口4間、奥行き12間という広さで、営業地及び営業種別を指定した。  一商店あたり、三戸分まで借地でき、地代は坪あたり6銭3厘だっという。…
大夕張鉄道敷設案 あらかると

大夕張鉄道敷設案

 昭和4年の(北部)大夕張開鉱以前、北部大夕張の炭田の有望なことが明らかになり3本の専用鉄道敷設案が検討された。 大正7年(1918年)  7月、三菱鉱業が北部大夕張(鹿島)を調査し始める。  北部開発第1次案として『北部大夕張-万字間』鉄道調査。  万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂…
三菱、大夕張炭坑買収のころ あらかると

三菱、大夕張炭坑買収のころ

 手元に昭和41年8月1日発行の大夕張炭鉱労働組合『二十年史』がある。労働組合が記述した労働者の歴史、とはいってもかたぐるしくなく、読み物としても面白い記述が多い。時代の雰囲気や、様子がわかる部分を抜き書きしながら、ここに書き留めていきたい。    以下は、明治末期、資本参加していた三菱が、大正五年…