回想・随筆

日々生活の中で、ふと、あの日、あの頃を思い出す。ふと書き留めてみた過去の出来事、思い。

火の用心 | 内川准一 随想

火の用心 | 内川准一

春ですね。 アパート裏手に広がる北大第二農場の雪融けも近い。 ここの雪原は、毎年、ある日突然、一斉に融ける。 そして、土の原(畑)に変わるまでのわずかに2日ほど巨大な沼が出現するのです。  そして、瞬く間に消えてしまうのです。 私はこれに名前を付けています”さまよえる湖、幻の北大湖”これを見た者(新…
北海道弁••••••いたましい、いたましくない|高橋正朝 #82 続・大夕張つれづれ

北海道弁••••••いたましい、いたましくない|高橋正朝 #82

     〘 もったいない 〙の意味の〘 いたましい 〙は、北海道弁だが、今でも使われているのだろうか?   もう、使われていないような気がするが ••••••。       # 80 で言及した〘 デラデラ 〙は、現在では、あまり使われていないようで、年配者はすぐわかるものの、若年層では、単語だけ…
東日本大震災体験記|ziny 随想

東日本大震災体験記|ziny

※注 本稿は大夕張における『1968年十勝沖地震』の投稿中に『附録』として記載されていたものです。   平成23年(2011年)の3月11日は都心のエレベーターの中での地震を経験しました。   いやぁー、本当にすさまじかった。無事の今思うと貴重な体験でした。    15:00の約束で先方に向かいエレ…
1998年 大夕張 閉鎖の頃|飯田雅人 随想

1998年 大夕張 閉鎖の頃|飯田雅人

    昨日の北海道新聞夕刊に『鹿島の施設 水没で閉鎖』という見出しで、小さな記事が出ていました。  内容は、住民の移転がほぼ終了し、鹿島連絡所が9月29日で閉鎖され、10月末には、夕張署の鹿島駐在所も閉鎖されるというものでした。   6月に私が大夕張に行った際には、鹿島連絡所は、4月から火曜日のみ…
雪中ジャンプと凍ったタオルのチャンバラ |内川准一 思い出ばなし

雪中ジャンプと凍ったタオルのチャンバラ |内川准一

雪中ジャンプよくやりました。 私らはもっぱら4軒便所の屋根からでした。  姿が完全に雪に埋没するのが最高でした。 長靴から足が抜けなくなるのもお構いなしで、かかとの上にしもやけを作って血を滲ましていた。 最近見かけないタイプの子供だったんだね。栄養状態も悪かったのかしらん。 あと、タオルでチャンバラ…
空の音|Kawauchi Masami 思い出の記

空の音|Kawauchi Masami

戦闘機の動画を見ていて思い出したことがあります。   今は聞いた事が有りませんが、 昭和40年〜42年頃、自衛隊のジェット機の音が聞こえて来た時、 『ドンッ』と、音がして、学校中のガラスが震えていたの覚えていませんか?   先生に聞いたらジェット機が、音速を超えた時に出る音だと教えてくれました。  …
北海道弁••••••手袋をはく|高橋正朝 #81 続・大夕張つれづれ

北海道弁••••••手袋をはく|高橋正朝 #81

    先週、飯田さんの写真付きの投稿で、〘 そり遊びとボッコ手袋 〙というのがありました。       今から40年ぐらい前になるが、東京のデパートで、〘 ぼっこ手袋 〙と書かれた陳列品を見たことがあった。  ガラスケースの中に入っていたものは、価格は覚えていないが、結構高かった。 〘 ボッコ 〙…
緑町3丁目15番から|Kawauchi Masami 思い出の記

緑町3丁目15番から|Kawauchi Masami

昭和34年頃 家の物干しにつかまって 東京の兄が、カラー化してくれた写真です。 緑町3丁目15番から、緑町4丁目方面の撮影です。 3丁目と4丁目の間には、少し坂が有りました。 なので4丁目の屋根が写っています。   写真で緑町を見ると 3丁目は19番で終わっています。 3丁目と4丁目の間の坂は16番…
炭山駅から大夕張駅まで | 石原賢治 思い出ばなし

炭山駅から大夕張駅まで | 石原賢治

 大夕張炭山駅は始発駅でしたが、何度かそこから乗車することがありました。  改札口のすぐそばには、今まさに出発を待つ蒸気機関車が湯気といいますか、蒸気をちらつかせ出発の時間を待ちわびているようでした。  あの、汽笛も子供にとっては大変大きな音で、いつボウ ボウといいますか、ポーポーという音を発するの…
童心にかえって |飯田雅人 思い出ばなし

童心にかえって |飯田雅人

雪での遊び  凍るような寒さの、真冬には何をしたかというと、他愛もないことですが・・・ --真っ白に積もった雪の中へのジャンプ-- これは楽しかったですね。 新雪の積もった朝には、雪かきは大変でしたが、熱くなった身体を冷やすにはもってこいでした。  石炭小屋の屋根の上から、高く積った雪山の上から両手…
雪から抜け出す方法|Kawauchi Masami 思い出の記

雪から抜け出す方法|Kawauchi Masami

札幌の今年の大雪で、あっちこっちでスタックしている車を見てて大夕張の冬を思い出しました。 昭和50年頃、まだ乗用車に4WDが無く、私達も冬はよく埋まりました。 その時、私の抜け出す方法は、当時の車はみんなチョークが付いていました。 そこでスタックした車をわざと、タイヤをカラ回転させます。 そこでチョ…
東小の思い出マップ|高橋歌子 思い出ばなし

東小の思い出マップ|高橋歌子

  これは、昭和48年の鹿島東小学校の卒業アルバムからです。 夏休みに閉山で転校してしまった私は、卒業していないのですが、送ってもらいました。   閉山の時点で昔より学級数が少なくなっていたので、空き教室が卓球室になり、行く人も少なかったので皆気持ち悪がっていました。    トイレも大きくてシーンと…
雪山の上にできた道 |Kawauchi Masami 思い出の記

雪山の上にできた道 |Kawauchi Masami

今年の雪の多さに、ちょっと思い出しました。   今は病気のせいで、雪道の人の歩いた1本道は、歩けませんが、大夕張の頃、除雪と言えばブルドーザーが雪を押して行くばかりで、長屋の入り口は、長屋の人が押して来た雪を投げていました。     当然、道路の両端は、2~3mの雪の山の上に、人の歩いた1本道が出来…
昭和45年 バイクで写真撮影|Kawauchi Masami 思い出の記

昭和45年 バイクで写真撮影|Kawauchi Masami

 オートバイと私   1970年、昭和45年です。  オートバイに乗ってた私は、閉山の噂がで始めた頃だと思うのですが 撮っていた方がいいかなと言う感じで、その日のうちに春日町の吊り橋 神社からの風景 大夕張ダムを 撮って歩きました。 昭和45年、明石町の、鹿島自動車教習所跡地にて。当時イージライダー…
北海道弁••••••デラデラ | 高橋正朝 #80 続・大夕張つれづれ

北海道弁••••••デラデラ | 高橋正朝 #80

    この時季の、小学生時代の明石町購買会から、服部商店に向かう坂のことを思い浮かべた。      この時季の大夕張は、今よりも雪が多くて寒かったが、それでも、日中は陽がさすと、雪の表面が、ほんのチョッピリだが、湿るようになった。      とはいうものの、夜は零下になり、雪もまだ降る時季だったか…
春日町の我が家|成田利夫 思い出ばなし

春日町の我が家|成田利夫

石炭小屋が家の前に建っていて、隣の空き地が畑でした。 キャベツに長い柄の柄杓というんでしょうか、肥掛けすると臭くってねえ。   部屋は3部屋だったような覚えがあって、奥には、4畳半くらいの一部屋を増築してました。 二階じゃないんですが、玄関を正面にみて左側に父が鶏小屋を増築しました。   毎日生む卵…
学び舎に思う 随想

学び舎に思う

  どこにいっても 忘れないのは坂道です。   われらの学校生活を  象徴するように  曲がりくねっている   急ごうものならひどく息切れして  学校の白い壁の横まで 登り詰めた時  ふりかえると   カブト虫の行列のように  行儀よく土にへばりついている  明石町の炭鉱住宅が見える   山の山の …
北海道人気質と大阪人気質 | 大阪の小林 随想

北海道人気質と大阪人気質 | 大阪の小林

 昭和40年の夏、南部の貯木場の休憩所で休憩していたときの話です。  営林署員の材木の体積測定のチーム2,3人と私たち学生3人とがお菓子を食べながら雑談をしていました。  そのうち、いつも我々の世話をして下さっていたFさんが、 「小林君は大阪だね」  と訊ねられました。 「はい」 と私。   「大阪…
トンプク( 頓服 ) | 高橋正朝 #79 続・大夕張つれづれ

トンプク( 頓服 ) | 高橋正朝 #79

   私が、鹿島東小学校4年生のときである。  新聞の4コママンガがある社会面に、小さな記事が載った。    〘 男性が頓服で自殺未遂 〙という記事であった。      この〘 頓服 〙という漢字が読めたのは、家にあった〘 置き薬り 〙の箱の中には、必ずあったものだったからだ。  ひらがな若しくはカ…
ペナン島の大夕張出身者|泊川俊徳 随想

ペナン島の大夕張出身者|泊川俊徳

昨年暮れに、スマトラ地震での津波でタイ近隣の島々が多大な被害があり、死者10万とも言われています。 昭和61年か、62年か、どちらの年だったか、夏の頃、鹿島小学校校庭で、二人の多分、65歳は過ぎていたと思われる 女性二人に話し掛けられました。 「終戦後、間もなく大夕張からペナン島に移住し暮らしていま…