回想・随筆

日々生活の中で、ふと、あの日、あの頃を思い出す。ふと書き留めてみた過去の出来事、思い。

トタン板 | ふじみちょう 随想

トタン板 | ふじみちょう

夕張岳   35年ぶりに尋ねた「大夕張」   あの頃の町並みも目印になる建物もすっかり無くなっていた。   わずかに探し出せたものは、電柱、街路灯、側溝の石垣、U字溝、屋根に使用していたトタン板、錆びて朽ち果てた鉄棒とブランコ・・・。   あまりの変りように言葉を失ったのだが、我が故郷は心静かに迎え…
関西から スキーのはなし | 近藤志津枝 随想

関西から スキーのはなし | 近藤志津枝

寒い日が続いていますね。 北海道はいつも雪だるまマークですね。  今年は各地、大雪被害も多大でお気の毒です。  大通り公園の雪像を できあがる様子をインターネットで見ています。 (観光客気分ですみません)   スキーのはなし。  3才でスキーをはきました。みなさんこれぐらいですよね。  富士見町ゲレ…
モディリアーニの『 腕を広げて横たわる裸婦 』|高橋正朝 #77 続・大夕張つれづれ

モディリアーニの『 腕を広げて横たわる裸婦 』|高橋正朝 #77

    例によって、飯田さんが編集した明石町の住宅地図をコピペ。      昭和43年明石町住宅地図  この地図をピンチアウトすると、高島ラーメン店の右側の家に、渡辺 と書かれているのが見える。       渡辺 さんは、大夕張鉄道の保線の仕事をしていた。  キミコ さんという一人娘がいた。  私の…
明石町に住んでいました | 菅野彰彦 随想

明石町に住んでいました | 菅野彰彦

 当時は小学校の低学年で、3年を終えると釧路に越しました。   線路づたいに千歳や大夕張まで歩いていったこともよくありました。  明石町の鉄橋の近くにあった古い駅舎は秘密基地でした。   明石町に住んでいたころは、夕張がとても都会に思えていて、それも懐かしいですね。   不思議と寂しいという気はしな…
八百五十の思い出|ziny 思い出ばなし

八百五十の思い出|ziny

やっぱ、思い出は神社の横道から始まる。 じっくりと夕張岳を眺めてから細道を滑り降りていった。   40年前、小学4~5年生の頃何度か行った。 永森恒夫先生に連れて行ってもらった時もあります。   急斜面を前にしてスキーを担ぎ、第1の壁、第2の壁を汗を流しながら登った。  途中、きつつき(あかげら)の…
夕張東高校野球部地区予選の記録|夕張しみん 随想

夕張東高校野球部地区予選の記録|夕張しみん

 ベースボールマガジン社から「にっぽんの高校野球 VOL12北海道編」が出版されました。   北海道の高校野球ファン待望の北海道編です。   大正4年に始まった『全国高校野球選手権大会』(当時は中等野球大会)の道内の参加校352校の地区予選の戦績が載っています。   夕張東高校は、昭和38年から47…
大夕張の冬の遊び | 久々湊真一 思い出ばなし

大夕張の冬の遊び | 久々湊真一

  もうすぐ冬のオリンピックが始まります。大夕張っ子は、何やらワクワクしますね(笑)。  前祝に「大夕張の冬の遊び」を思い出して書いてみましょう。   <ジャンプ>   大夕張の子供は、小学校入学前後の年齢から、手作り台によるジャンプで遊んだ。  ジャンプ台を作る手順は、次のようにして行う。 (1)…
白金のおじいちゃんの家 | 孫娘 随想

白金のおじいちゃんの家 | 孫娘

 鹿島白金におじいちゃんが住んでいたので、遊びに行って五右衛門風呂に入ったり、家の後ろに作った土のレース場(?)みたいな所におにぃちゃん達が走りに来ていたのを思い出します。    おじいちゃんが亡くなってしまったので、遠退いていましたが、数年前、まだ少し人が住んでいる時にバイクで行きました。    …
願正寺のどんぐりの木|信子 随想

願正寺のどんぐりの木|信子

 半年ほど前、仮性近視について調べていたらこちらのホームページに遭遇しました  故郷がインターネット上でも間違いなく現存していたとは!心から感謝します。  私は、昭和24年生まれで、東小学校梅組信田(宍戸)律先生、中学では白田良夫先生、東高校では考古学クラブでした。   ふるさと鹿島ウイルスに、18…
天の川 | ぽち 随想

天の川 | ぽち

 鹿島にいたとき、芦別にいたとき。  夜におつかいに行ったときに、夜空には、いつも満天の星が天にきらめき、天の川があたりまえのように見えた。  でも、私はもう何十年も天の川を見ていない。   今は単身赴任で群馬県伊勢崎にいるが、やっぱり見えない。   毎日の犬の散歩のときにいつも空を見上げるが、やっ…
明石の沢へ翔んで逃亡したニワトリ | 高橋正朝 #75 続・大夕張つれづれ

明石の沢へ翔んで逃亡したニワトリ | 高橋正朝 #75

   前回、# 74 『 ミズキとまゆ玉 』の稿で、『 母親が、紫紅色のミズキの小枝をどこからか切ってきて 』と書いたが、そのミズキは、おそらく、# 45 『 明石の沢からの水汲み 』の稿で言及した明石の沢から、しかも、飯田さんが編集した写真のエリアから採ってきたものだったと思う。       ミズ…
鬼ごっこ |内川准一 思い出ばなし

鬼ごっこ |内川准一

 小林さんの『鹿島小学校でお化け遊びと称して、何人かの友人たちと学校内を探検』した話を読んで、思い出したことがあります。   当時、線路脇の便所だったか、富士見丘寄りの便所だったか忘れましたが、掃除が終わり、丁度西日が便所の床に射し込む頃、しんとして不気味な雰囲気の校内で、時々かくれんぼをしたもので…
忘れ得ぬ鹿島小学校 |野崎昭雄 思い出ばなし

忘れ得ぬ鹿島小学校 |野崎昭雄

 鹿島小学校校舎の写真を見て、四十数年前の小学校時代を思い出しました。  同校2年生に編入学したのは、昭和26年度でした。  そのときの担任は、若くて活発な尾崎という女性教員でした。   在職中に、あとから赴任してきた西村先生と結婚しました。  西村先生は、背が高く、スポーツマンで、歩き方に特徴ある…
鹿島中学の坊主頭 |飯田雅人 随想

鹿島中学の坊主頭 |飯田雅人

『野球あそび』の写真を見ていて思い出したのですが、写っている中学生らしき姿は、皆丸坊主刈りです。  私は昭和43年鹿島中学に入学しましたが、その2,3年前まで、男子は中学校に入ると髪の毛を丸刈りにして坊主頭にしなければならないきまりがあったように思います。   小学校高学年の頃、 『中学校に入るのは…
ミズキとまゆ玉 | 高橋正朝 #74 続・大夕張つれづれ

ミズキとまゆ玉 | 高橋正朝 #74

 小正月だから、ちょうど今の時期になる。  母親が、紫紅色のミズキの小枝をどこからか切ってきて、俵形のまゆ玉を小枝にくっつけて、家にあった神棚に飾った。      まゆ玉と書いたが、本物のまゆ玉ではなく、材質は知らないが、最中の皮のようなもので作られ、色は、白、桃色、黄色、青色などがあった。    …
堀田さんの牛乳の味 |阿部達也 随想

堀田さんの牛乳の味 |阿部達也

堀田さんの牛乳の味、一生忘れられません。 何故?ってかい! 大夕張の天然の自然の草を食べてる乳牛から牛乳を生産していたからなんですよ! 我が家は、月極めの宅配牛乳を頂いてましたが、紙のフタを開けると、美味しい脂肪が紙のフタについてまして、僕が舌で舐めてから美味しく頂きました。 かなり濃厚でした。 堀…
番外編・・・ホテルの別館で見かけた有名人|高橋正朝  #73 続・大夕張つれづれ

番外編・・・ホテルの別館で見かけた有名人|高橋正朝 #73

 今回も、大夕張とは何の関係もない。 しかし、話の流れでついでに書きます。       前々回、大夕張に関わる H 氏と最初に遭ったのは、ホテルの別館の事務所であったことを述べました。       H 氏がそこの事務所を去ってから3〜4日ぐらいしてから、昼休みにそのビルの周辺を散策しようと思いたち、…
大夕張のうさぎの思い出 |小野美音子 思い出ばなし

大夕張のうさぎの思い出 |小野美音子

 ある日、兄達が野うさぎを捕りに行く、ということになりました。  雪原に跳ね回る可愛い野兎を想い、魅力的なこの遊びにワクワクしましたが、母が私だけ小さいからとストップをかけました。   その時は、残念でしょうがなく、涙がこぼれました。   結局、用心深い兎は姿をみせず、兄達は手ぶらで帰って来ましたが…
帯向酒店の電話と社内電話|Kawauchi Masami 思い出の記

帯向酒店の電話と社内電話|Kawauchi Masami

     大夕張に、2種類の電話が有りました。      私が帯向商店に働いてた頃、昼ご飯に、池田屋食堂から出前を取っていました。    帯向商店は、三菱購買会の前にありました。  私が15歳の時、社長は50〜60歳くらいでした。  お婆さんもいて当時85歳くらいだったので、私達より2世代上で、大夕…