ザリガニやタニシのことを書いたが、書き忘れたことがあった。 それは、私が鹿島東小学校の生徒だったとき、明石町エリアの沢でザリガニ獲りをしていたころ、ザリガニが棲んでいた場所では、どういうわけか、私は一度もタニシを見たことがなかったのだ。 逆に、タニシがいた場所では、ザリガニを…
千年町から明石町に向かうと、明石橋のすぐ手前のあたり、左手に大きなの看板と建物がたっていた。 周囲には整備を待つ車だろうか、トラックや乗用車などが数多く駐車していた。 看板には『鹿島自動車整備工場』と書かれている。 ここからやや先に、左に曲がっていく道路があった。 そこは自動車教習所だったと…
「大夕張つれづれ」や「続大夕張つれづれ」の執筆者、高橋正朝さんが過ごした明石町番外地付近、平成の頃。 大夕張から明石町駅を過ぎ、道路に面した家々の並びが途切れると、岩野石油が見えてくる。 このガソリンスタンドと、砕石が敷き詰められたゆるやかなカーブの道が心に残る。 ここまでくると本…
千年町から明石町にさしかかる手前の明石橋。 子どもの頃、道路をバスが行き来するようになって、鉄橋で渡った時の目のくらむような高さを、ほとんど意識することもなく、この橋の上を何度往復していたことだろう。 その後、幾度かこの橋の上に立って周囲を見渡したことがある。 山側を見ると鉄道の旭沢鉄橋(5…
『大夕張~鹿島でくらした日々』(平成10年発行)には、最後の住民となった方々の個人史とも言える思い出と地域の写真が掲載されている。その中の一枚。 千年町側から橋を渡った先は、明石町。 ここに写っていないが右手には旭沢にかかる鉄橋が並んでいるという位置関係にあった。 千年町と明石町を隔てる…
昭和29年(1954年) 白黒写真に色付した画像 石炭貨車の間に立って作業する係員が四名程いるようだ。 大夕張と南部の間は数多くの谷によって隔てられ、石炭を積んで走った鉄道が住民の唯一の交通手段でもあり、生命線だった。 その谷にかかる橋の多くも昭和30年代、大夕張ダム建設と道路建設の工事によ…
社会に出た後,数回でいいから,こんなお盆を迎えることができたなら,本当に良かったのになあと,今でも思います。 お盆になると、都会へ出て行ったこの街の子供たちが、家族を連れて両親のもとへと帰ってくる。 大夕張の人口が一気に膨らむ。 同窓会で仲間たちと酒を飲み交わす。 少し歳を取…
明石町から南部方面に向かうには、その道路工事が完成するまでは、大夕張鉄道の線路に沿って歩いた。 線路の枕木に足をかけるには、子どもの脚の長さでは、枕木から枕木へと足を乗せられない。 必ず、足を敷石である砕石を踏み込んだ。 歩きにくいものの、道路がないのだから仕方がない。 とは…
私は団塊世代であるが、当時は1クラス50人以上で、中学校は1学年10クラス以上あった。 今から考えるとすごい数だよね。 通学時や通勤時なんか、道路が人で一杯だったような気がする。 愛知県に住んで40年になるが、やはり本当の故郷は大夕張だ。 今は街が消滅、我々の記憶にしか大夕張が存在しないのが残念だ。…
元尋常高等小学校の皆さんお元気ですか。 平成24年終わりですね。 来年も元気で頑張りましょう。 夕張岳の写真は夏冬とおして、何時見てもいいですね。 たか 北海道, 栄町 内緒! 男性 - 2012/12/30 _ 13:55:51 道路が切り替わり昔の感じは・・・ 思い出しかないようです。 oya…
12/16 午後2時とうとう大夕張へ帰る国道452号線が封鎖になり、新国道へと切り替わりました。 街には入ることができなくなり、新国道は雪で危険な国道となったようです。 詳しくは『大夕張のてっつん』のブログで・・・。 美佐子東 京, 千年町 50歳~59歳 女性 - 2011/12/18…
初めまして 私自身は大夕張の事、良くわからないのですが 、私の父が春日町の出身です。 20年前と12年前に父と訪れた事があり、鹿島小学校も見て来ました。 お化けが出ると言うトンネルも歩いてきました…。 父の寂しそうな顔が、今でも心に残っています。 このHPを見つけ、つい書き込みしました。 町名案内図…
沢をまたぐ道路ができるまで、千年町と明石町方面結んだ常盤橋。 昭和47年常盤町の街並みを背にカメラに向かって何か話しているようなのは、菅原少年。吊橋の欄干に電飾がともる。お祭り、お盆の日だろうか。 常盤橋の電飾ですが、多分手掛けていたのはうちの父です。 炭鉱で電工場、いわゆる変電所ですか…
私が子供の頃の夏休みのお昼ご飯といえば「冷麦」 あのピンクとかぐりーんとか入っているやつですね。あれでした。 なにが美味いんだか、色つきのを妹と取り合ったりしてました。 それで、毎日毎日「冷麦」 「たまには違うものが食べたいよ~」 母に訴えると 「今日は違うよ! 今日は、そ・う・め・ん」 …
前回の続・大夕張つれづれ # 155〘 水溜りに棲んでいたタニシ? 〙の FB 版に、成田利夫さんと Masami Kawauchi さんが、タニシを煮て食べたことを書き込んでいました。 しかし、我が家ではタニシを食べたことはなかった。 タニシは旨いものらしいということは、何回か…
この写真について投稿者の菅原正広さんは次の様にいっていた。 これは何処ですか?分かる方居たら教えて下さい。そもそも大夕張なのかもわかりません。 弟と私の服や靴からみて昭和45〜6年だとは思うんですが。 昭和45年か46年頃 この写真を見て、自分は常盤町の詰所の横の池を思い出した。 も…
家族やご近所さん達と鹿島橋を渡っています。 バスケットやお重を提げているので、多分運動会に向かうところでしょうね。 皆笑顔であるところがミソですね。 大夕張の住民にとって運動会って一大イベントだったのがよく分かりますね。 昭和43年(1968年)頃…
昭和47年の春、鹿島橋を渡り入学式に向かう私ですが何故か浮かない顔で俯き加減です。 周りの女の子達はみんな堂々とした様子ですね。 大夕張の女の子は皆逞しかったのでしょうか? それとも自分がひ弱だったのかな。 昭和47年4月 …
常盤町の家の前です。 鯉のぼりを見上げるわけでもなく、兄弟揃って視線は何処に? 昭和42,3年だと思います。 鯉のぼりでなく黄色いハンカチだったら、健さんでも出てきそうです。 …
春先。 雪が溶けて、土が顔を出し、草花が芽吹く前のいっとき、雪の下で寝ていた茶色い下草が顔を出す。 冬と春の間にも、こんな短い季節があった。 あたたかい春の日差しに誘われて、写真をとることになったのだろうか。 常盤町8丁目8番地、菅原正広さんのご家族が住んでいた家の前である。 1968年頃…