4年くらい前に登録したのですがアドが超古かったので変更します(笑)。 こないだ8ミリビデオテープを整理してたら懐かしいものありました。 菊水町の炭住長屋がありましたよ。 閉山後だったから廃屋になってましたけどね。 今はとっくに建物が無くなったし、企業用地で入る事できないけど当時の思い出はずっと住んで…
前回、# 83 【 番外編••••••KR 省からのメール 】を書きましたが、ついでだから、G 省のパリにある出先機関と、2つの民間企業のパリ支店について書きます。 前回の KR 省については、新型コロナや年金に関わる行政機関なので、大夕張出身者にも、その出先の窓口に接触した人も多い…
2022年3月10日快晴の大夕張。 かつて鹿島小学校の裏の沢、泉町。 宝沢にかかる「代々木橋」の欄干越しに、かつての宝町方面を見る。 泉町の上の方を走った大夕張鉄道の築堤のあとがすぐにわかった。 埋め立て前の宝沢を渡った鉄橋の橋脚も残る。 准さんが、「天の橋立てのように見える」と表したと…
昭和20年代と思われる。 。 協和会館は、昭和6年に建てられ、その何度か改修工事が施されたきたようだ。 昭和32年に改装される様子がこちらかみることができる。 それ以前の改装される前の協和会館。 駅前から続く通りも未整備で、水たまりが多い。 その道をランドセルを背負った子どもたちの通学途中の風景にも…
昭和14年11月23日 炭砿病院。診察室の中の様子をスケッチしたものだと思われる。 医師と診察を受ける患者が描かれる…
大夕張郵便局閉鎖の報をきいて・・・ いよいよ、大夕張郵便局も閉鎖なのですね。 小さい頃(昭和30後半~40年代)、よく職場に連れられて親の仕事を覗きに行ってました。 当時は、まだ電電公社(今のNTT)と未分離で、電話交換を郵便局でやっていました。 私の母は、その交換手でした。 父のほう…
千年町と明石町を深い谷で隔てた旭沢。 かつて鉄橋の上から見た深い谷を見下ろすと、目もくらむような高さだった。 今はそのずっと上の方からその鉄橋を見下ろしていた。 明石橋と旭沢の鉄橋が、湖面を覆う雪原から姿をのぞかせる(向こうに見えるのは、新しい白銀橋) 2022年3月10日 この冬の大雪で道路の両側…
紫に 朝雲破れ 東(ひんがし)の 空映え渡る 常の日の 力の限り 試さばや いざ 今日の日に 准さん ふるさと鹿島の風を シューパロの風を 未来の風を 受け 魂の響きを お伝えください。 雪が降る中、湖面に張り出した土手に立って湖面を見下ろしていると、どこからともなく三好達…
昭和42年の鹿島東小学校1年竹組石野百合子先生のクラスでした。 とても厳しく、そして優しい先生だったのを覚えています。 3年は、松組で名前は忘れましたが男のでかい先生(確か、ドラキュラと 呼ばれていた)でした。 怖い先生だったのを 鮮明に覚えています。 もぐら oguran@kcn.ne.jp 奈 …
サーチャージから6日後(水位299.5m)の新白金橋 平成26年(2014年)11月12日(水) 試験湛水中のシューパロダムが、明日11/13(木)最高水位に達します。 (18時現在 雷雨ですが、今日中の最高水位はありません。) けれど明日の天気予報は雨。 14日(金)には晴間がありそうなの…
五月には、ようやく大夕張で桜が咲く。 一枚の写真から大夕張の春をイメージしてみましょう。 神社の丘に立って、眼下の街を眺め 神社の丘に立って、耳を澄ませば いったい 何が聞こえて いたでしょう ほらあなたにも聞こえていた 忘れることのないあの声と街の音 ht…
昨年、父の50回忌と母の3回忌の法要をすませた。そして今年、自分が大夕張を出て50年。 「区切りの年として、大夕張に行こう」と思ったものの生来の不精者故、のびのびになっていた。 今年になって3月9日10日、天気予報は、気温が上がり好天が続くと聞き、「父と母を連れて大夕張に行ってこよう…
私は、S34年東小卒/S37年鹿島中卒/S40年東高卒(2期)です。 以降は本州で就学・就職 し、現在は茨城県日立市に住んでいます。 私の父は、大夕張に一軒しか無かった印刷業を 営んでいました(みなと印刷)。 大夕張には平成2年5月に行きましたが、湖に沈む前に再 訪したいものです。 私にとっての大夕…
昭和45年、6歳になるときに江別に引っ越しております。 父は夕張東高校の教師で、教員住宅に住んでいたことを記憶しています。 当時のことはわずかですが覚えております。 もう生まれた場所は残っていませんが、私にとっては生涯の故郷となっています。 工藤 央 damiansourn@excite.co.jp…
KR 省というのは、旧 K 省と旧 R 省が統合されてできた組織である。 このような書き方をしたのは、SNS やユーチューバーの画面を見てマネをしてみたわけです。 それらユーチューバーたちは、ニューヨーク州の弁護士試験合格を夢見ている、日本人 K 氏のことを、当初は本名で出していたが、昨…
昭和45年頃、購買会。陽射しの強い昼さがり。 母が勤めた購買会 【高橋勝美】 栄町ブロックでしたので、買い物は購買会でした! 母が、肉屋-惣菜も売ってました-働いていました。ですから私は鍵っ子でした。小学校の帰り道に時々、母の務め先に顔を出してました。 購買会 【飯田雅人】 大夕張で日常使うも…
昭和20年代後半に遠幌の炭鉱住宅に住んでいました。 父は雨森康男、中学校の先生(英語)、母は艶、大夕張炭鉱診療所で歯科医。 私と弟は遠幌保育園でした。 雪の情景が、あの頃ラジオから流れた「雪の降る町」の唄と共に必ず瞼に浮かびます。 小学校の裏には熊が出るので銃を構えた案山子があったこ…
昭和の大夕張、バス停留所を作って(描いて)みた・・・。 地図のネタになるか、空想の街のジオラマを彩る一素材になるのか。 用途は定かではない笑。 それはともかく実際の写真やビデオに写りこんでいるものを参考にした。 昭和30年代から昭和40年頃の自分がいた街がベースになる。 当時の三菱バス停の標識は…
『岳富町商店街と「しがい」』のコメントに「千歳町」を「しがい」と呼んでいたとありましたね。 僕の周りでも確かに「しがい」呼んでいました。 子供の頃は,街のはずれにあるから「市外」なんだろうと思っていました。 でも、飲食関係の商店街も沢山あったので「市街」だったのかもしれませんね。 武田自転車屋さんの…
「しがい」とよんでいた千年町。 その千年町と大夕張駅方面を結ぶ岳富町。昔の人は宝沢と呼んだ。 千年町との往来には、この沢を埋め立てた道を歩いた。 戦後鉄道の築堤沿い建ったバラックの商店は昭和30年代立派な商店街となり、「岳富町」となった。 千年町方面のことを、子どもの頃「しがい」と呼んでいた。 千年…