Masa

北海道夕張市鹿島1番地。昭和31年3月、大夕張生まれ。 昭和31年から、昭和46年まで、炭礦で繁栄する、自然豊かな街で幼少年期を過ごしました。中学校卒業、炭砿病院の薬剤師だった父が亡くなり、大夕張を離れました。昭和48年三菱大夕張炭礦が閉山になる2年前のことでした。 1996年に「ふるさと大夕張」を開設、運営。2019年12月より再起動しました。
『さよなら美鉄バス』ツアー 訪問記

『さよなら美鉄バス』ツアー

昭和31年(1956年)9月大夕張炭山内を走り出した美鉄バス(三菱バス)が、平成14年(2002年)3月31日で廃業となりました。  惜しみつつ最後のツアーが計画されました。  当日は、かつての路線だった夕張・美唄を中心にまわり、たいへんかかわりの深い大夕張にも当然立ち寄りました。 写真は、かつての…
宝沢 冬 2002 訪問記

宝沢 冬 2002

宝町の広場、集会所のあったあたりから、岳富町(宝沢)を間に緑町。 町はもうない。   標語塔に「人の子もわが子もみんな社会の子」という標語が読める。 それぞれの時代に掲げられたいくつもの言葉が、赤茶色に錆びた標語塔に重なり合って浮かび上がっていた。 唯一読み取ることのできたこの言葉が、地域に向けて発…
北海道弁••••••手袋をはく|高橋正朝 #81 続・大夕張つれづれ

北海道弁••••••手袋をはく|高橋正朝 #81

    先週、飯田さんの写真付きの投稿で、〘 そり遊びとボッコ手袋 〙というのがありました。       今から40年ぐらい前になるが、東京のデパートで、〘 ぼっこ手袋 〙と書かれた陳列品を見たことがあった。  ガラスケースの中に入っていたものは、価格は覚えていないが、結構高かった。 〘 ボッコ 〙…
緑町3丁目15番から|Kawauchi Masami 思い出の記

緑町3丁目15番から|Kawauchi Masami

昭和34年頃 家の物干しにつかまって 東京の兄が、カラー化してくれた写真です。 緑町3丁目15番から、緑町4丁目方面の撮影です。 3丁目と4丁目の間には、少し坂が有りました。 なので4丁目の屋根が写っています。   写真で緑町を見ると 3丁目は19番で終わっています。 3丁目と4丁目の間の坂は16番…
炭山駅から大夕張駅まで | 石原賢治 思い出ばなし

炭山駅から大夕張駅まで | 石原賢治

 大夕張炭山駅は始発駅でしたが、何度かそこから乗車することがありました。  改札口のすぐそばには、今まさに出発を待つ蒸気機関車が湯気といいますか、蒸気をちらつかせ出発の時間を待ちわびているようでした。  あの、汽笛も子供にとっては大変大きな音で、いつボウ ボウといいますか、ポーポーという音を発するの…
鹿島東小校舎全景 学び舎の思い出

鹿島東小校舎全景

鹿島東小学校閉校記念誌より、校舎全景写真。 グラウンドの北側の土手の方から校舎を撮影した全景写真。   写真のキャプションには、 「この校舎で、3000余の子どもたちが学び、遊び、そして育った」 とある。   昭和26年(1951年)開校、そして閉山を経て昭和53年(1978年)に閉校するまで、27…
童心にかえって |飯田雅人 思い出ばなし

童心にかえって |飯田雅人

雪での遊び  凍るような寒さの、真冬には何をしたかというと、他愛もないことですが・・・ --真っ白に積もった雪の中へのジャンプ-- これは楽しかったですね。 新雪の積もった朝には、雪かきは大変でしたが、熱くなった身体を冷やすにはもってこいでした。  石炭小屋の屋根の上から、高く積った雪山の上から両手…
雪から抜け出す方法|Kawauchi Masami 思い出の記

雪から抜け出す方法|Kawauchi Masami

札幌の今年の大雪で、あっちこっちでスタックしている車を見てて大夕張の冬を思い出しました。 昭和50年頃、まだ乗用車に4WDが無く、私達も冬はよく埋まりました。 その時、私の抜け出す方法は、当時の車はみんなチョークが付いていました。 そこでスタックした車をわざと、タイヤをカラ回転させます。 そこでチョ…
東小の思い出マップ|高橋歌子 思い出ばなし

東小の思い出マップ|高橋歌子

  これは、昭和48年の鹿島東小学校の卒業アルバムからです。 夏休みに閉山で転校してしまった私は、卒業していないのですが、送ってもらいました。   閉山の時点で昔より学級数が少なくなっていたので、空き教室が卓球室になり、行く人も少なかったので皆気持ち悪がっていました。    トイレも大きくてシーンと…
雪催いの町(Snowfall Version) 雪催いの町

雪催いの町(Snowfall Version)

詩・曲 山吹とおるさんの「雪催いの町」のイメージを想起する素材に巡り会いました。 闇夜に、青白い月光に照らしただされた雪ばかりが真白に光り輝き、雪が深々と降りつのる世界。 そんな動画にコトバをのせてみました。   町の思い出が言葉になり、浮かんでは消え、また浮かんで消えていく。 追いかけても、追いか…
そり遊びとボッコ手袋 楽しかった日々

そり遊びとボッコ手袋

昭和35年頃 富士見町5丁目、炭鉱住宅は、ほぼ規格が決まっていた。 このあたりは病院の関係者などが多かった。一軒2戸、横には畑というか雪のない時期には、家庭菜園になるような空き地のスペースがあった。 窓も埋まるような雪が降った後は、その空き地の方に向かって坂を滑る絶好のスペースが出来て、冬の遊びに興…
雪山の上にできた道 |Kawauchi Masami 思い出の記

雪山の上にできた道 |Kawauchi Masami

今年の雪の多さに、ちょっと思い出しました。   今は病気のせいで、雪道の人の歩いた1本道は、歩けませんが、大夕張の頃、除雪と言えばブルドーザーが雪を押して行くばかりで、長屋の入り口は、長屋の人が押して来た雪を投げていました。     当然、道路の両端は、2~3mの雪の山の上に、人の歩いた1本道が出来…
昭和45年 バイクで写真撮影|Kawauchi Masami 思い出の記

昭和45年 バイクで写真撮影|Kawauchi Masami

 オートバイと私   1970年、昭和45年です。  オートバイに乗ってた私は、閉山の噂がで始めた頃だと思うのですが 撮っていた方がいいかなと言う感じで、その日のうちに春日町の吊り橋 神社からの風景 大夕張ダムを 撮って歩きました。 昭和45年、明石町の、鹿島自動車教習所跡地にて。当時イージライダー…
戦後の大夕張炭鉱鉱員住宅 あらかると

戦後の大夕張炭鉱鉱員住宅

 戦後、石炭産業で働く人が増えることに応じて、春日町(昭和23年)、常盤町(昭和25年)に、新しい街ができた。春日町の住宅は、一棟2戸の内水道内便所で、部屋も六畳間が三つと妻帯者を中心に入居したという。    町外れの荒れ地に新しく炭鉱住宅が建設された。  その建設を担った大林組の社史に、記述がある…
北海道弁••••••デラデラ | 高橋正朝 #80 続・大夕張つれづれ

北海道弁••••••デラデラ | 高橋正朝 #80

    この時季の、小学生時代の明石町購買会から、服部商店に向かう坂のことを思い浮かべた。      この時季の大夕張は、今よりも雪が多くて寒かったが、それでも、日中は陽がさすと、雪の表面が、ほんのチョッピリだが、湿るようになった。      とはいうものの、夜は零下になり、雪もまだ降る時季だったか…
坑口 その2 炭鉱とともに

坑口 その2

大夕張炭鉱の数多くあった坑口の一つ。昭和30年頃と思われるが詳細不明。 坑口に大きく掲げられた看板の字が不鮮明で読み取れないのが残念。   以前掲載した「坑口」の写真と一緒に投稿された写真。   白黒写真に着色した画像   参考までに夕張市史や、社史による坑口のおおよその位置図は次のページから ht…
同室患者 ~祖父のスケッチ帖から~ 絵画

同室患者 ~祖父のスケッチ帖から~

昭和14年11月20日. 炭砿病院の病室。「仝室患者」と書かれているが、同じ部屋の患者であれば、この時期、祖父も一時入院していたことになる。 祖父の書き残したものによると、 「昭和の初め頃、流行性眼病とか耳の障害、また外科では、自分の不注意から湯たんぽによる足のヤケド等で治療を受け短期間で回復」(長…