Masa

北海道夕張市鹿島1番地。昭和31年3月、大夕張生まれ。 昭和31年から、昭和46年まで、炭礦で繁栄する、自然豊かな街で幼少年期を過ごしました。中学校卒業、炭砿病院の薬剤師だった父が亡くなり、大夕張を離れました。昭和48年三菱大夕張炭礦が閉山になる2年前のことでした。 1996年に「ふるさと大夕張」を開設、運営。2019年12月より再起動しました。
思い出のアルバム 若き東小の先生たち 学び舎の思い出

思い出のアルバム 若き東小の先生たち

私の叔母が鹿島東小学校の教員をしていました。(昭和28年~昭和31年) 同時代の若き先生方のお姿です。 長谷川渺子先生・澤田敏枝先生昭和28年7月11日 登別駅前   向かって左から長谷川渺子先生・湯浅純治先生・斉藤(田口)利子先生・深浦(湯浅)重子先生昭和30年11月   長谷川渺子先生・斉藤(田…
大夕張でのスキー|山本栄子 思い出ばなし

大夕張でのスキー|山本栄子

私も60年前(小学生迄)、冬は毎日の様にスキー場に行ってました。 確か神社があり、そこから転ばぬ様に、かなりのスピードで滑り降りるのがベスト。 ロープリフト ロープにつかまって上がり、神社のある上迄行き滑り降りる単純な繰り返し。   手袋も雪がいっぱい、鼻水も。   今のようなスキーウェアも無く、寒…
列車を乗り換える 運んだ、石炭を人を

列車を乗り換える

『1960年(昭和35年)列車折り返し運転』のなかから。線路脇の崖の崩落により列車をのりかえ通学する高校生たちや乗客達の姿を写した5枚の写真のうち、「4 列車を乗り換える」の写真に着色したものです。   白黒写真に着色した画像 もとの白黒写真をみるにはこちらのページから↓ https://ooyub…
昭和60年頃のビデオとスキー場そり遊び|Kawauchi Masami 思い出の記

昭和60年頃のビデオとスキー場そり遊び|Kawauchi Masami

 昭和 50年ごろ、8mmが欲しくて迷っている時、世の中にビデオカメラが出てきました。  直ぐ買いました。 昭和53年の時です。  その時はカメラが28万円。しかし ビデオデッキが無ければ使えませんでした。ビデオデッキも28万円しました。  でもカメラに覗き窓だけで、ピントはテレビの画面見て合わせま…
坑口 炭鉱とともに

坑口

昭和30年前後に撮影されたもののようだが、場所、その他詳細不明。   ケーブルに巻上機が設置されていて、坑口の周辺は資材が散乱し、使われているようにみえない。 白黒写真に着色した画像…
雪に埋まりました!|ziny 思い出ばなし

雪に埋まりました!|ziny

 いやぁー、あの頃は本当に雪が降りました。  もうー半世紀・・50年も前ですね。  昔は家の前に、雪はねの場所を先に作ってから、雪かきでした。    前の家が見えなくなってました。    玄関先のつららは、2~30cm位の太さでぶら下がってました。    当時、私は家の裏に回っていたところ、突然、屋…
昭和30年 鹿島小学校学芸会 学び舎の思い出

昭和30年 鹿島小学校学芸会

 1955年(昭和30年)10月9日、日曜日に行なわれた、鹿島小学校の学芸会。  当時の低学年、1年生ないしは2年生の出し物。  舞台の上での演目は、なんだろう?  舞台中央でうずくまっている子が演じるのは、ねずみ?クマ?。  周囲にはお寺の和尚さんと小僧さんたちを演じる子どもたちが踊っている。  …
大夕張の教会 |山本栄子 随想

大夕張の教会 |山本栄子

 今から60年以上も前、初めて大夕張カトリック教会のクリスマス会に行きました。  シナモン味のドーナッツだと思うのですが、ニッキ味とは違い、生まれて初めてのシナモン (多分その当時はシナモンすらわかってなかった?)  この世の物か?と思いました。    6年生の冬、捻挫をしてしまい病院に行く為、母を…
冬の栄町ブロック 思い出の街角

冬の栄町ブロック

昭和40年頃、雪に埋もれる栄町アパート。下の、ピリカおじさんの回想によると、栄町1丁目~2丁目の4棟だろうか(健保会館前庭の向かいあたり)。向かいのブロックの窓から身を乗り出して撮った写真と思われる。前岳の裾の方がなんとかうつっている・・・。   深い雪におおわれた、とびきり日差しが強くて、雪光の反…
汽車にハネられそうになった小型トラック|高橋正朝 #69 続・大夕張つれづれ

汽車にハネられそうになった小型トラック|高橋正朝 #69

   この話は、私が10年ぐらい前に、鹿島中学校の1年生のときと2年生のときに同級生だった女子生徒に、バンコクから電話した際に聞いた話しだった。      そのときは、大して気にも止めずに聞いていたのだが、〘 ふるさと大夕張 〙にそのことを投稿せんがため、それを了解してもらうことと、不確かだった内容…
札幌にあった三菱の宿泊施設 その3 2丁目3番地

札幌にあった三菱の宿泊施設 その3

旧永山邸の門柱と旧三菱鉱業寮の建物    札幌市中央区北2条東6丁目、大型商業施設の隣りに三菱鉱業が所有していた、旧永山邸がある。  永山邸は、明治10年代に建築された永山武四郎の私邸。  1911年(明治44年)に三菱が買収し、事務所として使用、1937年(昭和12年)に北1条通りに面した北側部分…
札幌にあった三菱の宿泊施設 その2 2丁目3番地

札幌にあった三菱の宿泊施設 その2

 (前回のつづき)  前回、 Masaaki Saito さんの南3西23あたりにあった宿泊施設と、自分の北1西8にあった宿泊施設の思い出について掲載したが、同じような思い出をもち、何か覚えている方がいるのではないだろうか?と思い、何人かの方に聞いてみた。  その記憶を以下に紹介する。  (Kawa…
札幌にあった三菱の宿泊施設のはなし その1 2丁目3番地

札幌にあった三菱の宿泊施設のはなし その1

 先日、鹿島中学校の同級生のMasaaki Saitoさんから、メールがあった。  札幌にあった三菱の宿泊施設についてだった。  Masaaki Saitoさんのメールによると、その宿泊施設は、南3条付近で、西は23丁目前後だったという。  そこに宿泊した時の思い出を次の様に書いてくれていた。  お…
栄町プール(昭和60年頃) 映像

栄町プール(昭和60年頃)

Kawauchiさんが当時南部に住んでいた頃、かつてくらした大夕張のプールで撮影したご家族の大切なホームビデオ。   1990年代、アナログからデジタル化へと世の中が変化する中、ビデオからDVDにして残されてきたそうです。   映像には、栄町のブロック住宅などの家屋はなくなったものの、1960年代の…
3年目の独り言 2丁目3番地

3年目の独り言

 昨日12月8日で、『ふるさと大夕張』の更新を再開してからちょうど2年たちました。今日から3年目。    備忘録ということで、例によって自分のために節目の記録として残していきたい。  昨年1年経ったときには、次の様に書いていた。  『今後も、旧『大夕張掲示板』や、旧『住民登録』の投稿を、現在の『夢の…
三菱鉱業大夕張礦業所全景 炭鉱とともに

三菱鉱業大夕張礦業所全景

昭和30年代 白黒写真に着色した画像   大夕張礦業所全景。表玄関とも言うべき事務所の裏手にあたる一帯。左手下の建物は,進発所。中央には,コークス工場,石炭の積み出し施設が見えています。 https://ooyubari.com/2020/04/16/s33kogyosyotatemono/ 進発所…
南大夕張の選炭機|Kawauchi Masami 思い出の記

南大夕張の選炭機|Kawauchi Masami

  私が勤務していた南大夕張の選炭機のはなしです。  運転の時、操作盤のランプテストあとに、工場内に2回のベルの合図、3回目で運転です。 運転は両手で、同時に2つの運転スイッチを押します。   順番に運転していきます。  石炭が上がってきました。 水槽で煽りながら、比重の違いで石炭とズリを、分けてい…
昭和8年 大夕張礦業所 炭鉱とともに

昭和8年 大夕張礦業所

こちらの写真も、『昭和8年 栄町』の写真と同じように、かつて九州の大学のデジタル資料で公開されていた画像の2枚のうちの一枚。 石炭の積み込み場のあたりには、石炭車を連結した蒸気機関車が白煙をあげているのが見える。 その向こうの工場地帯は、開発までの原野が広がっている。    原野を切り開いて建設され…
採炭から選炭へ(後編 選炭)|Kawauchi Masami 思い出の記

採炭から選炭へ(後編 選炭)|Kawauchi Masami

  選炭機 石炭の選別  選炭機では『1号炭』、『2号炭』、『ズリ』に分けられます。 コンベアにのって石炭が運ばれてきました。  水に入れて煽っていきます。  水は流れています。その中でズリは沈み、ズリ山へ運ばれます。     少し軽い石炭は2号炭になります。  2号炭の荒目は家庭に配られます。細い…