昭和48年の大夕張駅構内。 左に駅舎、続いて鹿島通運。 右に倉庫・精米所が見える。 向かって左の側線が、フレンド裏の石炭置き場に伸びていた。 踏切のそばにあった富士見町詰所のあたりから、作業の様子をよく眺めていたなあ・・・。 白黒写真に着色した画像 ブログ『煙の記憶』より 下は、大夕張鉄道の…
珍しくふるさとの夢を見た。 炭砿病院を過ぎたあたりからその夢は始まった。 栄町の通りを駅に向かってひとり、車で走っていた。 「あれ、ダムに沈んだはずだが・・・」 そう思いながら、雑草が生い茂り、人のいなくなった無人の商店街を走り抜けた。 右手の錦町の山の方に一台の車が止まっていた。 古い…
昭和40年、『シューパロ湖畔・職場対抗ボート大会』の写真をボート乗り場のところから撮影した写真のようだ。写っている人たちには、先の写真と同じ人物がいる。 ボートに乗っている子、ボートに乗ろうとしている子?カメラで撮影しようとしている子?高校生のグループらしき人たち物もいる。 後ろの道路を歩い…
三弦橋の下を流れたパンケモユーパロ川の沢。 パンケ(下手の)、モ・ユーパロは、「子の、小さい、支流の・夕張川」の意。 「茂夕張(もゆうばり)」「下夕(しもゆう)」と呼ばれた。 夕張市史(S56)所載の図 本流であるシューパロ川の沢については、こちら↓ https://ooyubari.com/202…
昭和40年にシューパロ湖で開かれた礦業所の職場対抗ボート大会だという。 職場の福利厚生の一つとしてのレクリエーションだったのだろうとは思うが、『対抗』というからには、何らかの形式で、得点、あるいは順位をつけたのだろうか。 職場対抗ということもあってか、湖畔亭の周辺には、若い男女や、学生、家族連れ…
私が鹿島東小学校の高学年だったあるとき、授業で、先生が、石けんを作ろうと言った。 理科の教科書に、石けんのことが出ていたからだ。 石けんの具体的な作り方が、教科書に載っていたわけではない。 油と苛性ソーダで作ると書かれていただけだったように思う。 油は皮膚につくとべとつくから、それ…
この通りは、手前が礦業所で、そこに向かう道。通勤途中の人たちもみえる。 右手に2階建のアパートが見える。このブロックの前で撮ったのが、『炭砿病院前』の写真。『ふるさと大夕張2丁目3番地』での、自分がはっきり場所を覚えている数少ない場所だ。 右手前に見える木立は病院前の公園があったと…
長谷川さんの『食憶』にもありましたが、我家の味付けも塩分の多いものでした。 父は、採炭夫で先山をしていましたので、食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てられていました。 何を食べるにも、たっぷりめの醤油と、極めつきは、『味の素』の山です。 特にサケは「塩引き」といって、焼き上げても表…
炭山駅横から北側と,官行と呼ばれた地域。過去の世界を行きつ戻りつ。 『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)では、「閉山のあとに」と題して掲載した写真。 昭和48年閉山の後,昭和49年各関連施設の取り壊しがおこなわれた。 「平成10年 発電所からポンプ場へ」の昭和40年発電所と同じ場…
発電所の隣にあったコークス場。 私が高校生位の頃迄、父が勤めていました。 二交代の勤務制だったと思います。ある日、雨が降りだし、傘を持って線路沿いに歩いて行った記憶があります。 石油等が輸入されるようになり、コークスの需要が少なくなったせいで、井出組?さんに、渡すという件で、当…
突然よみがえる記憶 官行の道 平成10年夏の大夕張 下の写真は、昭和40年頃の発電所の写真をカラー化したもの。 色はあまり綺麗に出せなかったけれど、それでも初冬の風景なのか、枯れた下草が寝ているような様子に見える。 白黒写真に着色した画像 大夕張を出てからも,私自身の記憶に残る風景や建物は多く…
懐かしの写真の中に、大夕張駅を見て本当に帰って来たと思いました。 停車場(昔私が子供の頃、年寄達は駅のことをこうとも呼んでいた気がします)は人を見送って、見送られ、又会っての繰り返しの場でした。 大夕張駅は、ただただ別れの駅になってしまいました。 札幌へのバスが通るようになって、バス停が…
昭和32年頃。富士見町5丁目。線路そば、炭砿病院の近く。 昭和31年3月に、ここで生れた。 年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんにかわいがってもらった。 岡田先生の息子さん、伊藤さんの娘さん・・・・。若林さんの娘さん・・・。 父の職場の炭砿病院の薬局にもよく『遊びに』いった。 接してくれた大人達…
私の住んでいる君津には、たくさんの大夕張出身者がいると思います。 引っ越しした当時は、同じ団地に住んでいました。 皆 家を建ててバラバラですけど・・・ さて、北海道方言と言えばたくさんありますが『うるかす』(つける・ひたす)は、標準語だと思っていました。 10数年前に、千葉県人に指…
先日の石野さんの貴重な8ミリ映像の一コマより。 昭和46年(1971年)夕張東高の仮想行列のワンカットだ。 宝町から千年町に抜けるコース、ここは、千年町児童公園の前を通り、劇場前に出て行く道であり、私にとっては、鹿島中学校への通学路であり毎日のように歩いた道だった。 最初映像を見たとき、すぐ…
昭和35年ころ(私が中学1年)、毎日、春日町から鹿島中学校まで登校していましたが、時々悪がき仲間と通学路を離れて登校しました。 春は、うど、夏はスイカ、秋は大根人参などずいぶんご馳走になりました。 シューパロ川に沿って、行くこともありました。特に便所場球場から下流は、川沿いに道のないところ…
購買会栄町支所からプールまでの間には、空き地があった。 栄町の購買会横には踏切もあり、この空き地では、小学校低学年の頃(1960年代前半)よく遊んだ。 一人遊びの記憶。一人で遊ぶとろくでもないことを思いつく。見ての通り線路への柵もなく、土手をちょっと上がると線路だ。 踏切もあったが、人が通る…
白黒写真に着色した画像 宝町3丁目の炭砿住宅。妻と姉。 向かって左で犬を抱いているのが妻で、赤ん坊を抱っこしているのが、妻の姉、そして近所のおじさんです。 妻は、北菱閉山で大夕張に来て、大夕張閉山で登川にいきました。昭和47年(1972年)ぐらいに大夕張に来て、75年には登川に行っています。…
前回、会社から各家庭に配布されたと書いた。 しかし、もとになったEP盤は、我が家にあったものではない。大夕張から札幌に出るときに処分されたのだと思う。 20年くらい前、『大夕張小唄』のSP盤や『社歌』を、ヤフオクで購入した。しかし、残念ながらプレーヤーを所有していないため聞くこともできず死蔵し…
鹿島中学校2年生の理科の授業で、水の電気分解が実施された。 窓の外の木々は、まだ緑の葉をつけていたので、2学期になって間もないころだったと思う。 理科の担当は、デンスケと生徒たちが勝手にアダ名した、大宮六郎 先生だった。 私たち K 組の担任でもあった。…