思い出の街角 営林署苗畑 営林署苗畑。炭鉱病院の裏手から対岸。この林道をしばらく行くと磯次郎の沢に沿って奥に続く。 子どもの頃、この道をジープに乗せられていったことがあるような気がする・・・。 ガタガタの曲がりくねった道を山の奥に向かい、谷は深く、川は細くなり、木が茂った。 せまく砂利の敷かれた道を、川の上にか… 続きを読む
思い出の街角 南部独身寮 昭和40年(1965年)、『大阪の小林』さんが一夏を過ごした南部貯木場の独身寮。 当時の南部独身寮とのかかわりについて、小林さんは『懐かしき貯木場(南部)』の中で、次のように書いている。 小生は昭和40年の一夏(七月中旬から八月中旬まで)南部にありました営林署の貯木場で、大学の友人二人と共にアルバイ… 続きを読む
思い出の街角 明石警察官駐在所 昭和45年 明石町駅近くの通りに面して建っていた駐在所。 『明石警察駐在所』の看板がかかる。 掲示板には、空き巣にに入ろうとしている泥棒のような人物と鍵のマーク。 『鍵をかけましょう』という呼びかけだろうか。 人の多かった大夕張では、当時鍵をかけていても、空き巣に入られることがあった。 … 続きを読む
思い出の街角 栄支所裏手富士見町 かつて大夕張鉄道の歴史を記した『山史』のホームページがあった。『山史』を編纂された菊池さんの息子さんである審人さんが作成されていたもので、貴重なサイトだったが今はない。 その中に掲載されていた懐かしい一枚だ。たぶん閉山前後の写真だろう。 大夕張炭山をゆっくりと発車した石炭列車は少しずつスピ… 続きを読む
思い出の街角 三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃《カラー版》 白黒写真に色を付けると、立体感や臨場感が増し、当時の様子が生き生きと蘇ると言われ、昨日の新聞にも、どこだかの大学が、関東大震災の時の写真をAIと人の手による着色で、当時の記憶が生々しく蘇ったなどという記事が載っていた。 着色作業をしていて、色付けしたばかりに却って侘しさ寂しさを感じる写真があ… 続きを読む
思い出の街角 歩道橋から錦町方面 ~鹿島小学校前踏切~ 歩道橋から撮影した錦町方面の写真。 手前には、今まさに鹿島小学校前の踏切にさしかかる列車、先頭の蒸気機関車のプレートも『No.5』と読める。 大夕張駅に到着だ。 その背景、写真の右手には、鹿島小学校の木造体育館が見えている。昭和53年に新体育館ができるまで、大夕張の子どもたちの体育や… 続きを読む
思い出の街角 三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃 写真すぐ左手の大夕張炭山駅から一日に何度も石炭を運んで行き来していた鉄道は、すでに撤去されてない。 閉山翌年の頃だろうか。 炭砿病院前のかつての線路の周囲に伸びた雑草が、失われた活気の大きさを感じさせる。 右手正面玄関の上には、「三菱大夕張病院」の文字。 … 続きを読む
思い出の街角 鹿島自動車整備工場・自動車教習所前 千年町から明石町に向かうと、明石橋のすぐ手前のあたり、左手に大きなの看板と建物がたっていた。 周囲には整備を待つ車だろうか、トラックや乗用車などが数多く駐車していた。 看板には『鹿島自動車整備工場』と書かれている。 ここからやや先に、左に曲がっていく道路があった。 そこは自動車教習所だったと… 続きを読む
思い出の街角 明石町 番外地 「大夕張つれづれ」や「続大夕張つれづれ」の執筆者、高橋正朝さんが過ごした明石町番外地付近、平成の頃。 大夕張から明石町駅を過ぎ、道路に面した家々の並びが途切れると、岩野石油が見えてくる。 このガソリンスタンドと、砕石が敷き詰められたゆるやかなカーブの道が心に残る。 ここまでくると本… 続きを読む
思い出の街角 明石橋銘板 千年町から明石町にさしかかる手前の明石橋。 子どもの頃、道路をバスが行き来するようになって、鉄橋で渡った時の目のくらむような高さを、ほとんど意識することもなく、この橋の上を何度往復していたことだろう。 その後、幾度かこの橋の上に立って周囲を見渡したことがある。 山側を見ると鉄道の旭沢鉄橋(5… 続きを読む
思い出の街角 冬の明石橋 『大夕張~鹿島でくらした日々』(平成10年発行)には、最後の住民となった方々の個人史とも言える思い出と地域の写真が掲載されている。その中の一枚。 千年町側から橋を渡った先は、明石町。 ここに写っていないが右手には旭沢にかかる鉄橋が並んでいるという位置関係にあった。 千年町と明石町を隔てる… 続きを読む
思い出の街角 竜田の沢(6号の沢)埋め立て工事 昭和29年(1954年) 白黒写真に色付した画像 石炭貨車の間に立って作業する係員が四名程いるようだ。 大夕張と南部の間は数多くの谷によって隔てられ、石炭を積んで走った鉄道が住民の唯一の交通手段でもあり、生命線だった。 その谷にかかる橋の多くも昭和30年代、大夕張ダム建設と道路建設の工事によ… 続きを読む
思い出の街角 常盤町8丁目8番地住宅の前で 春先。 雪が溶けて、土が顔を出し、草花が芽吹く前のいっとき、雪の下で寝ていた茶色い下草が顔を出す。 冬と春の間にも、こんな短い季節があった。 あたたかい春の日差しに誘われて、写真をとることになったのだろうか。 常盤町8丁目8番地、菅原正広さんのご家族が住んでいた家の前である。 1968年頃… 続きを読む
思い出の街角 大夕張神社からの街並み《カラー版》 昭和6年頃とされる白黒写真に着色した。 あらためて昭和48年の全景写真から、同じような構図で並べてみると次の様になる。 山が近い。 町だけでなく、背景の山の木々も人の手が入り姿を変えている。 大夕張駅の駅舎は小さく、その前の通りも広い・・・というか道の両側に建物がない・・・。 三菱大… 続きを読む
思い出の街角 三菱大夕張炭砿病院 昭和45年頃の炭砿病院。 その頃。 右手の突き出た屋根のある部分が、正面玄関。左手は北側の玄関。職員関係者用の玄関だった。 正面玄関と北側の玄関の間に見える一階の窓のところが、事務室・受付だった。 正面玄関を入った先の吹き抜けの立派な階段を上がると診療室がならび、二階にはその窓が見… 続きを読む
思い出の街角 共栄橋 先日の高橋さんの「続大夕張つれづれ#150『蒲の穂』の中に、明石町から、開拓・桜ヶ丘の方に向かう時、通った坂道と揺れる吊橋の話があった。明石町と開拓を結ぶ白銀橋ができる前のことである。 それによると、この揺れる吊り橋は、明石町側の坂道を下り、吊り橋を渡り、そして坂道を上って小林さんの畑のそばの… 続きを読む
思い出の街角 三弦橋 パノラマ 1997 大夕張を訪ねる人は、おそらく長い旅路の果てに、南部のトンネルを抜けるとここでほっと一息つきたくなったことだろう。 大夕張ダムができるその昔、深い峡谷が人々を迎えた時も、谷がダムに飲まれて巨大な湖となったあとも、景色は変われど、大夕張への入り口であったことは変わらなかった。 1997年の… 続きを読む
思い出の街角 昭和45年健保会館(武徳殿) 写真でいえば、「三菱礦業所大夕張幼稚園から聖心第二幼稚園」の写真から右に繋がる写真。 昨日掲載した『幼稚園 園庭の名残り 1997』の時点でいえば、とうぜん広い「はらっぱ」だった。 ちょうど季節は今ごろか。 武徳殿正面の花壇にはチューリップやマリーゴールドなど色とりどりの花々が咲… 続きを読む
思い出の街角 幼稚園 園庭の名残り 1997 『はらっぱ』の中の遊具。 原野の中の遊具といった風情だが、きちんと手入れがされていて、当時、子どもたちの遊び場として機能していたようだ。 栄町から富士見町方向をみる。 奥の白い建物のみえる場所あたりに富士見町の詰所があった。正面奥に踏切があり、石炭列車が左右に走った。 向こうの山の中腹に浄水場… 続きを読む
思い出の街角 歩道橋からのまち 1997 歩道橋からみたかつての大夕張駅前、1997年7月のすがた。 旧鉱業所事務所のイサオ製作所から煙がたなびいている。 住民の数356名、人の暮らしが感じられた最後の大夕張のまち。 これ以降1998年にかけて街から建物があっと言う間に消えてなくなっていった。 1997年7月… 続きを読む